
山城国一揆で国人たちが寄合を開いた平等院
室町時代に起こった応仁の乱は、11年間続き、京都の町を焼け野原にしました。 応仁の乱が終結した後も、全国各地で争いは続き、やがて戦国時代に突入していきます。 応仁の乱で、畠山家の家督争いに敗れた畠山義就(はたけやまよしなり)は、文明9年(1477年)に斎藤妙椿(さいとうみょうちん)とともに河内国を武力で制圧。 畠山家の家督を相続し山城守護についた畠山政長がこれに怒り、応仁の乱が終結した後も両者は争い続けることになりました。
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室町時代に起こった応仁の乱は、11年間続き、京都の町を焼け野原にしました。 応仁の乱が終結した後も、全国各地で争いは続き、やがて戦国時代に突入していきます。 応仁の乱で、畠山家の家督争いに敗れた畠山義就(はたけやまよしなり)は、文明9年(1477年)に斎藤妙椿(さいとうみょうちん)とともに河内国を武力で制圧。 畠山家の家督を相続し山城守護についた畠山政長がこれに怒り、応仁の乱が終結した後も両者は争い続けることになりました。
慶長2年(1866年)9月12日。 新撰組と土佐藩士が三条大橋で乱闘する事件が起こりました。 事の発端となったのは、8月29日の夜に三条大橋に立てられた制札が墨汁で落書きされたことで、その後も何度も引き抜かれたりするいたずらが絶えませんでした。 町奉行は、犯人を召し取ろうとしましたが逃げられるばかりで、新撰組に犯人の捕縛を依頼することにしました。
京都市右京区の妙心寺境内に壽聖院(じゅしょういん)というお寺が建っています。 壽聖院は、慶長4年(1599年)に石田三成が父の正継の菩提を弔うために伯蒲禅師を院主に迎えて建立しました。 石田三成は、安土桃山時代に豊臣秀吉の五奉行として政治の舞台で活躍した人物として知られています。
豊臣秀吉に仕えた家臣に堀尾吉晴という武将がいます。 仏の茂介と呼ばれることがあった堀尾吉晴は、秀吉に仕えた武将の中でも温和な性格だったようです。 加藤清正、福島正則、石田三成は豊臣秀吉に仕えた武将としてよく知られていますが、堀尾吉晴は彼らほど有名ではありません。 でも、豊臣秀吉の出世に堀尾吉晴も大きく貢献しています。
京都市中京区の新京極通に誠心院というお寺が建っています。 初代住職となったのは、平安時代の女流歌人である和泉式部です。 歌人が住職になったお寺は珍しいですね。 ところで和泉式部は、どうして誠心院の初代住職となったのでしょうか。
戦国時代を終わらせ天下を統一した豊臣秀吉は、その生涯で多くの城を築きました。 一夜で築いた墨俣城や石山本願寺の跡に築いた大坂城など、秀吉が築いた城は、挿話も含めて有名なものが多いですね。 その豊臣秀吉が、生涯最後に築いたのが伏見城でした。
京都市東山区に建つ清水寺は世界遺産に登録されている寺院とあって、毎年、京都で最も観光客が訪れます。 山の上に建てられた数々のお堂は見ごたえがあり、一度参拝すると、その迫力ある景色を忘れることはないでしょう。 それにしても、いったいどうやって東山の山頂にこれだけの伽藍を整えたのか、清水寺を訪れると毎回のように疑問がわいてきます。
慶応4年(1868年)正月3日に京都で鳥羽伏見の戦いが起こりました。 鳥羽伏見の戦いは、薩摩藩及び長州藩を中心とした新政府軍と旧幕府軍との間の戦いで、戊辰戦争(ぼしんせんそう)の幕開けとなりました。 京都には、鳥羽伏見の戦いの史跡がいろんなところにあり、京都市東山区の東福寺にも維新戦役忠魂碑が立っています。
天正15年(1587年)に豊臣秀吉が北野大茶会を盛大に催しました。 お茶好きなら身分に関係なく誰でも参加できたそうですから、秀吉の太っ腹さがよくわかります。 この北野大茶会で、副席として用いられた茶室が、現在も京都市東山区の建仁寺に残っています。
2月3日の節分の日に京都市上京区の北野天満宮に参拝しました。 もちろん節分会を見ることが目的だったのですが、開始時間まで余裕があったので、宝物殿で行われていた「学問の神・驚きの『宝刀展』」を見て時間をつぶすことに。 なお、宝刀展は2016年3月13日までです。