京都市右京区の嵯峨野に滝口寺というお寺が建っています。
もともとは往生院三宝院という名だったのですが、明治維新で廃寺となった後、昭和に入って再興されて現在の寺名となりました。
滝口寺という名は、高山樗牛(たかやまちょぎゅう)の小説「滝口入道」が由来となっています。
滝口の武士・斎藤時頼
滝口入道は平安時代のお坊さんで、元の名を斎藤時頼といいます。
時頼は、京都御所の清涼殿を守る滝口の武士で、平清盛の子の重盛に仕えていました。
ある日、清盛の邸宅西八条殿で花見の宴が催されました。
この宴には、時頼も出席していました。
宴では、清盛の娘の建礼門院に仕える横笛が、舞を披露しました。
その舞を観た時頼は、彼女に恋をし、恋文を送るようになります。
2人の仲は、やがて時頼の父にも伝わります。
父は、時頼に対し、「おまえは優秀な滝口の武士であり、将来、平家一門に入る身でありながら、どうして、横笛のような身分の低い女性と交際するのか」と、厳しくしかりつけました。
父のしかりを受けた時頼は、主君の重盛の信頼を裏切った自分自身を責めましたが、これは仏門に入るための手引と思い、何も言わずに嵯峨野の往生院で出家して、滝口入道となったのです。
滝口入道の居留守
時頼が出家したことを知った横笛は、彼に自分の気持ちを打ち明けるために都中を探し回りました。
そして、日も暮れたころ、彼女は、嵯峨野の往生院にたどりつきます。
往生院から聞こえるお経の声は、まさに時頼のもの。
横笛は、寺の者に時頼に会わせて欲しいと頼み込みます。
彼女のやつれた姿を襖の奥からこっそりと覗いていた時頼は、ここで横笛に会ってしまっては出家した意味がなくなると思いました。
そして、時頼は、寺の者に彼はここにはいないと横笛に伝えるように頼みます。
これを聞いた横笛は、指を切り、その血で近くにあった石に以下の歌を書き残し、立ち去りました。
山深み 思い入りぬる 柴の戸の まことの道に我を導け
その後、時頼は横笛に居場所を知られたことから、女人禁制の高野山に移りました。
また、横笛も法華寺で尼となりました。
それを伝え聞いた時頼は、横笛に以下の歌を贈ります。
そるまでは 恨みしかとも 梓弓 まことの道に 入るぞ嬉しき
そして、これに対し、横笛は以下の歌を返します。
そるとても 何か恨みむ 梓弓 引きとどむべき 心ならねば
その後、まもなくして横笛は法華寺で亡くなります。
彼女の死を知った時頼は、これまで以上に修行に励み、立派な高野聖(こうやひじり)となったと伝えられています。
現在、滝口寺の本堂には、鎌倉時代に作られた滝口入道と横笛の木造が祀られています。
また、参道には、横笛が歌を書き残したとされる横笛石も置かれています。
なお、滝口寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。