叡山電車の一乗寺駅から東に15分ほど歩くと詩仙堂というお寺に到着します。
詩仙堂から北に5分ほど進むと、今度は山のふもとの木々の中に小さなお堂が現れます。
このお堂は、葉山観音というお寺のものです。
梅田雲浜の旧跡
葉山観音は正式には、一灯寺(いっとうじ)という名称です。
そして、小さなお堂は観音堂で、ここには、本尊の三面馬頭観世音菩薩が祀られています。
江戸時代に後水尾天皇の皇女の元瑤禅尼が、この本尊を崇敬していたことから、彼女によって境内が整えられましたが、やがて明治時代に入って衰退していきました。
それでも、現在までお寺が残っているというのは、立派なことですね。
葉山観音の境内には、下の写真に写っている梅田雲浜(うめだうんぴん)旧跡が残っています。
梅田雲浜は、福井県の小浜藩出身の江戸時代後期の人物です。
日本の近海に外国船が度々やってくるようになっていたこの時代、雲浜は、藩に海防に関する建言をします。
しかし、これが藩主の酒井忠義の怒りに触れて、嘉永5年(1852年)に藩籍を削られてしまいました。
翌年に浦賀にペリーが来航して以降は、外国人を日本から追い出そうという攘夷(じょうい)運動を展開し、幕府の政治に反対の姿勢を示します。
しかし、これが原因で、雲浜は、大老の井伊直弼が行った安政の大獄で、投獄されてしまい、安政6年(1859年)に獄中で病死しました。
葉山観音に梅田雲浜旧跡の石碑が置かれているのは、彼が浪人となって困窮していた時にこの地に住んでいたことがあったからです。
他にも京都には、梅田雲浜の史跡がいくつか残っています。
京都市中京区の烏丸御池には、雲浜の邸宅跡の史跡があります。写真は、以下のWEBサイトに掲載されていますので、ご覧になってください。
また、東山区の安祥寺には雲浜の遺髪塚があり、京都霊山護国神社にも雲浜の碑が置かれています。
梅田雲浜が生きていた時代は、まだ幕府が力を持っていた時代だったため、彼の思想は危険なものとして幕府につぶされてしまいました。
しかし、雲浜が亡くなった後、彼の思想は、長州藩などの志士たちに受け継がれ、やがて、倒幕へと進んでいくことになります。
なお、葉山観音の詳細については、以下のページを参考にしてみてください。