元日に京都市東山区の豊国神社に参拝した後、北隣の方広寺にも立ち寄りました。
豊国神社は、豊臣秀吉を祀る神社ですが、方広寺もまた豊臣家ゆかりのお寺です。
この辺りは、豊臣家の史跡がいくつかあるので、歴史が好きな方は興味深く散策できるのではないでしょうか。
新年の静かな境内
方広寺には、京阪電車の七条駅から北東に約8分歩くと到着します。
市バスだと、「博物館三十三間堂前」から北に徒歩約4分です。
豊国神社から方広寺に入ると、すぐに現れるのが大きな鐘楼です。
鐘楼の奥に本堂があるので、お参りをしましょう。
境内の東側では、ピラカンサが真っ赤な実を無数につけていました。
遠目で見ると、赤色の葉が付いているように見えます。
本堂の隣には、大黒天を祀るお堂が建っています。
お堂の手前の石柱には、「傳教大師御作 豊太閤護持 大黒尊天」と刻まれています。
つまり、このお堂には、伝教大師最澄が制作し、後に豊臣秀吉が信仰した大黒さまが祀られているということですね。
なんともご利益がありそうな大黒さまですから、福を授かれるようにお願いしておきましょう。
先ほどの鐘楼は、下から見ると、天井画が描かれているのがわかります。
方広寺の釣鐘は、慶長19年(1614年)に豊臣秀頼が父の秀吉の追善のために造営したものです。
徳川家康が、豊臣家の財力を削ることを目的に秀頼にすすめて造営させたのが、この釣鐘ですね。
その後、釣鐘の銘文に「国家安康」と「君臣豊楽」の文字を見つけた徳川家康は、家康の文字を二分し、豊臣家の繁栄を願った銘文だと難癖をつけ、大坂冬の陣を起こしています。
現在も、釣鐘には、この8文字を見ることができ、わかりやすいように白色で囲まれていますよ。
豊臣家が滅びた後、この釣鐘は、徳川家により呪いの鐘とされ、地面に置き鳴らされなくなりました。
それから約270年後の明治17年(1884年)に寄進で鐘楼が再建されるまで、鐘は野ざらしとなっていました。
再建された鐘楼の天井には、伏見城の女性の化粧室の天井画が移築され、それが、先ほど紹介した鐘楼の天井画です。
境内では、サザンカが咲いていました。
赤色のサザンカも咲いていますね。
手水鉢には蓋がしてあり、使えなくなっています。
元日の方広寺は、隣の豊国神社から参拝に訪れる人はいるものの、それほど多くはなく静かでした。
そろそろ方広寺から出ましょう。
短い時間でしたが、静かな境内でお参りでき、心身が清められましたよ。
この後は、智積院に参拝します。
なお、方広寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。