京都府亀岡市から保津川の急流を下る保津川下りは、観光客にとても人気があります。
その保津川は、古くから京都への物資の輸送に利用されてきました。
材木を筏に組んで嵐山の渡月橋付近まで流し、それを京都に運んで建築資材として使っていたんですね。
江戸時代初期の慶長9年(1604年)には、角倉了以(すみのくらりょうい)が、保津川の開削を計画し、さらに物資を輸送しやすくしました。
角倉了以の保津川開削
角倉了以は、前年の慶長8年にベトナムとの朱印船貿易を幕府に命じられ莫大な富を手にしました。
そして、国内では、山城と丹波の間の交易を計画し、幕府の許可を得ます。
それが、保津川の開削でした。
筏だけでなく、高瀬舟を使えば、保津川を使った輸送はもっと便利になります。
了以は、自らも現場で作業を行い、水路を完成させます。
また、水路に沿って舟を上流に引き揚げる綱を引くための人夫道も整備しました。
そして、慶長11年8月に保津川の水路が完成しました。
現在の保津川下りは、了以が完成させた水路を使っているんですね。
陸運が打撃を受ける
保津川の水路を完成させた了以は、亀岡盆地から保津峡の入り口に番所を設け、通過する高瀬舟から通行料を取り、ここでも莫大な利益を上げます。
しかし、保津川の舟運が可能となったことで、当時、陸運を行っていた馬借(ばしゃく)たちは打撃を受けました。
馬借は、荷物を馬の背に乗せて輸送する運送業者です。
保津川の開削で打撃を受けたのは、老ノ坂峠で働いていた丹波の馬借たちでした。
さらに了以は、富士川や天竜川の舟路開発も手掛け、慶長15年には、伏見・京都間の舟運のために高瀬川も開削しました。
高瀬川ができたことで、伏見・京都間の運送を担っていた馬借や車借も大打撃を受けました。
しかし、そのおかげで物資の輸送費用が下がり、米や薪の価格も下がって、京都の人々は大喜びしたと伝えられています。
高瀬川は、鴨川に沿うように造られましたが、それとは別に渡月橋付近にも西高瀬川が造られました。
西高瀬川は、三条通を沿うように東に流れ、途中で南に向きを変えて桂川に合流します。
三条通沿いには、材木商の倉庫も建ち並び、渡月橋近くには角倉了以の邸宅もありました。
江戸時代に栄えた保津川の舟運は、明治32年(1899年)に京都鉄道会社が保津峡の工事を終え、園部まで開通したことで衰退します。
かつて、保津川や高瀬川の舟運に使われた高瀬舟は、中京区の一之舟入で見ることができますよ。
陸運に取って代わった舟運でしたが、近代化の波により、再び陸運に取って代わられました。
輸送手段が変化するたびに京都の物流は発達し、住民の暮らしは便利になっています。
役目を終えた高瀬舟は、今は静かに一之船入に置かれています。