京都は、延暦13年(794年)の平安遷都以来、約千年に渡り都が置かれました。
遷都の翌年には、平安宮の重要な施設である朝堂院の正殿「大極殿」が完成します。
その場所は、現在の千本丸太町で、今も千本丸太町の交差点から千本通を少し北に歩いた辺りに大極殿跡を示す石碑が立っています。
千本丸太町の交差点
千本丸太町の交差点の歩道を歩いたことがある方なら見たことがあると思いますが、歩道には「大極殿跡」と書かれたタイルが埋め込まれています。
最寄駅は、JR円町駅で、丸太町通を東に10分ほど歩くと千本丸太町の交差点に到着します。
ここが平安宮の中心だったのだと想像すると、感慨深いものがありますね。
交差点には、大極殿の図があり、その近くに大極殿の説明書も設置されています。
大極殿は、天皇の即位式、正月に行われる朝賀(ちょうが)や御斎会(ごさいえ)、外国使節の謁見など、国家の重要な行事が行われました。
弘仁6年(815年)の修理で屋根に緑釉(りょくゆう)瓦が初めて採用されたと考えられています。
大極殿は貞観18年(876年)の火災、康平元年(1058年)の火災の後には再建されたものの、安元2年(1177年)の火災で焼失して以後再建されることはありませんでした。
創建当初の大極殿は、東西59メートル、南北24メートルもある大きな建物だったそうです。
柱は朱塗りで、屋根の大棟両端には鴟尾(しび)をのせ、軒先や棟には緑鮮やかな緑釉瓦で縁取りされていたのだとか。
平安宮朝堂院跡
千本丸太町の交差点から50メートルほど西に歩くと、りそな銀行があります。
その角に平安宮朝堂院跡を示す石碑が立っています。
この石碑がある地は、大極殿の西側ないしその西側の廻廊付近にあたり、昭和50年(1975年)に平安博物館が発掘調査を行った際には、大極殿に関係すると思われる多量の瓦類や緑彩の鴟尾の破片などが出土したそうです。
ただ、後世の撹乱が著しく、遺構を確認することはできなかったようです。
平安宮の朝堂院がどのような姿をしていたのかは、京都市左京区の平安神宮に行くとわかります。
平安神宮は、平安遷都1100年にあたる明治28年(1895年)に創建され、社殿は朝堂院を模して、その8分の5に縮小して建てられています。
下の写真は、平安神宮の大極殿です。
これよりも、もっと大きな大極殿が千本丸太町の交差点付近に建っていたんですね。
平安神宮の大極殿もとても大きいのですから、朝堂院の大極殿は当時の人々からすると大迫力の建物だったことでしょう。
それにしても京都はどこを歩いても史跡を見つけることができて楽しいですね。
歴史好きの方なら、1日中歩き回っても飽きない街だと思いますよ。