元治元年(1864年)7月19日。
長州藩が京都御所を攻撃する蛤御門(はまぐりごもん)の変が起こりました。
この時、京都御所を守っていたのは、会津藩と薩摩藩を中心とした幕府軍でした。
会津藩主の松平容保(まつだいらかたもり)は、京都守護職であったことから、長州藩の御所への乱入に備えて、そこから少し南にあった凝華洞(ぎょうかどう)を仮宿舎として待機していました。
後西天皇退位後の仙洞御所
凝華洞は、江戸時代に後西天皇(ごさいてんのう)が退位後の仙洞御所とした場所と伝えられています。
そのような場所を仮宿舎としたのですから、当時、孝明天皇が松平容保をとても信頼していたことがわかります。
松平容保は、蛤御門の変が起こった時、病気を患っていました。
そのため、朝廷の配慮があり凝華洞を仮宿舎として利用できたとされています。
松平容保は、蛤御門の変の前年に起こった八月十八日の政変でも活躍し、孝明天皇から感謝されています。
その時、下賜された天皇の感謝状である宸翰(しんかん)と天皇の和歌である御製(ぎょせい)を松平容保は死ぬまで肌身離さず持っていたと言われていますね。
蛤御門の変は、会津、薩摩の両藩の活躍により終結しました。
しかし、京都市中はこの戦いで大火災となり、多くの家屋が焼失し、鴨川のあたりは家を失った町民たちで溢れかえっていました。
ちなみに長州藩の桂小五郎は、鴨川の難民に紛れて新撰組や会津藩の捜索から逃れ、国に帰っています。
現在、凝華洞があった場所は小高い丘となっており、そこに凝華洞跡を示す柱が立っています。
丘の上の松の横には東本願寺から寄進された灯籠が建ち、南には池があったそうですが、大正大礼前の改良で池は埋められています。
また、灯籠は九条池のほとりに移され、戦時中の金属供出により今は台座だけが残っています。
現在は、芝生の上に松の木があるだけで、近くの説明書を読まなければ、ここが蛤御門の変で松平容保が仮宿舎にした場所だとはわかりませんね。
京都御苑は、猿ヶ辻の変など幕末に重大事件が頻繁に起こった場所で、現在は、それらの事件が起こったことを示す説明書が所々に設置されています。
幕末史に興味がある方なら、京都御苑内を散策するだけでも、1日楽しむことができますよ。
これだけ広大な敷地が、ビルなどの開発に使われずに残っているのも京都の魅力のひとつですね。
なお、京都御所の詳細については以下のページを参考にしてみてください。