文久3年(1863年)8月18日に京都政界で政変が起こりました。
それまでは、長州藩とそれを支持する公卿たちによって牛耳られていたのですが、彼らの政治のやり方があまりに強引だったため、孝明天皇の怒りを買い、京都から追放されてしまったのです。
これを八月十八日の政変と言います。
追放された長州藩士と公卿たちは、妙法院に集まり長州に落ち延びることを決断します。世に言う七卿落ちです。
三条実美以外の公卿はあまり知られていない
長州藩に落ち延びた7人の公卿は、三条実美(さんじょうさねとみ)、三条西季知(さんじょうにしすえとも)、四条隆謌(しじょうたかうた)、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)、壬生基修(みぶもとおさ)、錦小路頼徳(にしきのこうじよりのり)、澤宣嘉(さわのぶよし)です。
この中で、名前が知られているのは三条実美くらいでしょう。
彼は、幕末から割と有名でしたし、明治時代になると新政府で太政大臣も務めています。
西郷隆盛が主張する征韓論に抵抗した人物としても知られていますね。
ただ、歴史に名を残してはいますが政治的手腕は大したことなかったようです。
それでも、京都にとっては東京遷都で衰退していくのを食い止めた功績もありますから、現在、観光都市として国内外から旅行者を集められているのは、彼のおかげなのかもしれません。
四条隆謌のお墓を示す石碑
さて、三条実美以外の人物では、四条隆謌のお墓が左京区の妙伝寺にあります。
四条隆謌は、時代祭の七卿落ちの行列に混ざっていたと思いますが、はっきりとは覚えていません。
おそらく、多くの時代行列観覧者がそうなのではないでしょうか。
四条隆謌は、八月十八日の政変で官位を剥奪されましたが、慶応3年(1867年)の王政復古で京都に戻ることを許され、官位を復されています。
明治2年(1869年)には、維新の功績により永世禄300石を与えられ、また同年には陸軍少将にも任ぜられています。
その後も陸軍中将や元老院議官などを歴任し、明治31年に亡くなっています。
七卿落ち以降、歴史の舞台に登場していないのかと思ったのですが、明治後も割と活躍していたようですね。
下の写真に写っているのは妙伝寺の山門です。
山門の左前には、腰ほどの高さの石柱が立っています。
そこには「維新七卿 四条隆謌卿之墓」と刻まれています。
この石柱の前にも大きな石柱があるため、それに隠れて見えにくく、気付かない人も多いでしょうね。
例え気付いても、その名を見て誰なのかわかる人は少なそうです。
なお、妙伝寺の詳細は以下のページを参考にしてみてください。