京都御苑内にある京都御所は、四方を壁で囲まれています。
この京都御所の壁の東北の角の折れ曲がった部分の屋根には猿がいます。
そのため、この辺りは猿ヶ辻と呼ばれています。
鬼門を守る猿
御所の東北の壁の向かい側には、下の写真に写っている猿ヶ辻の標識が立っています。
そして、下の写真が猿がいる東北の壁です。
屋根の辺りにいるのですが、近付かないとわかりません。
近付いて屋根の辺りを見てみると確かにいました。
金網の向こうに烏帽子(えぼし)をかぶり、御幣を担いだ猿が。
ところで、なぜ猿は金網に閉じ込められているのでしょうか。
この猿は、実は御所の鬼門を守る日吉山王神社(ひえさんのうじんじゃ)の使者なのですが、夜になると近くをうろつき、いたずらばかりしていました。
そのため、いたずらできないように金網で閉じ込められてしまったそうです。
猿ヶ辻で起こったテロ事件
話は変わって、幕末の文久3年(1863年)5月20日の午後10時頃。
公家の姉小路公知(あねこうじきんとも)が、御所での会議から帰る途中、猿ヶ辻で何者かに襲われました。
公知は、外国人嫌いで、攘夷(外国人を日本から追い出すこと)を主張していたため、長州藩や薩摩藩などの攘夷主義者から慕われていました。
この年の4月、公知は、幕府の勝海舟に勧められて、大坂港に行き、幕府が西洋から購入した軍艦に乗っています。
さすがに公知も、日本と西洋との文明の差を感じ、外国人を日本から追い出すのは難しいと思ったようです。
公知が攘夷から開国に心変わりしたという噂は、すぐに京都の町に広がります。
当時の京都は、攘夷に異議を唱える者は、過激派から天誅と称して暗殺される事件が頻繁に起こっていました。
そして、公知も5月20日に猿ヶ辻で、過激派の手によって命を落とすことになったのです。
これが世にいう猿ヶ辻の変です。
犯行に使われた刀
公知を襲った犯人は、すぐに京都守護職によって逮捕されました。
その犯人は、薩摩藩の田中新兵衛。
彼は、当時、頻繁にテロを実行していたことから、「人斬り新兵衛」と呼ばれていました。
しかし、今まで何度も暗殺を繰り返してきたのに逮捕されなかった新兵衛が、なぜ猿ヶ辻の変の犯人として逮捕されたのでしょうか。
それは、犯行現場に新兵衛が所有していた刀が遺棄されていたからです。
遺棄された刀が新兵衛のものだとわかったのは、土佐浪士の那須信吾が刀を見て、新兵衛のものだと証言したことが理由です。
新兵衛の身柄は、京都守護職から京都町奉行所に引き渡され、そこで取り調べが行われました。
取り調べを行ったのは、永井尚志(ながいなおむね)。
新兵衛は、当初、犯行を否定していました。
しかし、永井が犯行現場に遺棄された刀を新兵衛に見せると、彼は、その刀を奪い取り自害してしまいました。
結局、容疑者の田中新兵衛が自害したことから、猿ヶ辻の変の犯人が誰なのかを特定することはできませんでした。
この事件の真相を知っているのは、金網の中の猿だけですね。