建武3年(1336年)2月。
後醍醐天皇の軍勢によって京都を追い出された足利尊氏は、兵庫から船に乗り命からがら九州へと落ちのびました。
尊氏は、後醍醐天皇に反抗した朝敵。
このままでは、逆賊の汚名を着たまま九州へと向かうことになり、兵を募って再起するのは難しい状況です。
そこで、尊氏は、ある妙案を思いつきます。
光厳上皇の院宣を得るために薬師丸を京都へ
尊氏が再起を図るためには、自分が朝敵ではないということを世間に認めさせる必要があります。
そのために尊氏は、薬師丸という童武者を京都に遣わすことにしました。
薬師丸を京都に遣わす目的は、光厳上皇(こうごんじょうこう)に仕える日野資名(ひのすけな)に頼みごとをするためです。
光厳上皇は、鎌倉幕府の力によって後醍醐天皇の次の天皇として即位しましたが、幕府が倒れると、皇位が再び後醍醐天皇に移ったため、上皇に退いていました。
尊氏が薬師丸を京都に遣わした目的は、日野資名を通じて、光厳上皇から新田義貞追討の院宣を受けること。
そうすれば、上皇からの命を帯びて新田義貞を討伐するという名目ができるので、尊氏は九州で兵を募りやすくなります。
日野賢俊が錦の旗と綸旨を尊氏に届ける
光厳上皇からの院宣を賜る計画が成功したとしても、今の尊氏は、九州へ向かって、ただひたすら逃げていく落ち武者にすぎません。
途中で、新田義貞や楠木正成の軍勢に攻撃されれば、まちがいなく討ち取られる状況です。
しかし、幸いなことに新田義貞も楠木正成も京都に引き返したため、尊氏を追う敵はいませんでした。
2月16日。
待ちに待った光厳上皇からの使いが尊氏の船に合流します。
京都に遣わした薬師丸は、日野資名に会うことができ、その弟で醍醐の三宝院の僧の日野賢俊が、光厳上皇から院宣を預かり、尊氏に届けに来たのです。
日野賢俊は、錦の旗を尊氏に授けるとともに、光厳上皇の新田義貞を討伐するようにという綸旨(りんじ)を読み上げました。
光厳上皇は上皇なので、天皇が命令を下す綸旨(りんじ)を発することはないはずです。
これは、光厳上皇が、自分を正統な天皇と主張するもので、後醍醐天皇と戦う意思を示したものとみることができます。
すなわち、光厳上皇が尊氏に新田義貞追討の綸旨を下したことは、後醍醐と光厳の2人の天皇が並び立つことを意味し、ここに数十年に渡る南北朝時代が到来することになったのです。
光厳上皇から綸旨を受けた足利尊氏は、九州に上陸すると、すぐに兵を募り、瞬く間に大軍勢を率いて、再び京都へと向かいました。
日野家ゆかりの法界寺
京都市伏見区の日野に法界寺というお寺があります。
日野は、その地名のとおり、日野家ゆかりの地です。
法界寺は、永承6年(1051年)に日野資業(ひのすけなり)が、日野家の山荘を寺に改めたものです。
日野家からは、浄土真宗の開祖の親鸞が出ていることが有名ですね。
また、日野家は、賢俊が尊氏に光厳上皇の院宣を届けたことが縁となって、後に室町幕府8代将軍の足利義政に日野富子が嫁いでいます。