幕末の事件によく登場する宿のひとつに京都市伏見区の寺田屋があります。
例えば、慶応2年(1866年)には、坂本竜馬が宿泊中に伏見奉行所に捕えられそうになるといった事件が起こったりしています。
この時の事件は、寺田屋で起こった事件の中でも歴史的に有名なのですが、その4年前の文久2年(1862年)4月23日には、薩摩藩の内部抗争が寺田屋であり、9名の犠牲者を出した寺田屋事件も起こっています。
寺田屋に倒幕派が集結
この年、薩摩藩の藩主の父である島津久光が、藩兵を率いて京都に上洛しています。
同じ頃、伏見の寺田屋には、薩摩藩士の有馬新七や真木和泉を中心とした浪士など数十名が宿泊していました。
彼らの目的は、京都所司代を襲撃して京都を占領し、幕府を倒そうというもの。
そのためには、京都にいる島津久光を説得して、薩摩藩兵を動かす必要があります。
しかし、これを知った島津久光は激怒します。
久光は、寺田屋にいる藩士たちが藩邸に来て、彼の話を聞くように説得させようとします。そのために藩士の奈良原喜八郎ら8人の使者を送ることにしたのですが、彼らは寺田屋にいる藩士たちと同じ思想を持った者達でした。
そして、もしも説得に応じない場合には、藩の命令に背いたものとして、斬るように命じたのです。
この使者は、もう一人加わり、最終的に9人となります。
薩摩藩士の同志討ち
奈良原喜八郎を中心とした使者達は、午後10時過ぎに寺田屋に到着しました。
そして、倒幕派の中心人物である有馬新七に藩邸に来るように説得します。
しかし、有馬はこの説得に応じません。
奈良原は、同じ思想を持った有馬たちを斬りたくはありませんでしたが、説得に応じない場合には、藩命により斬らなくてはなりません。
そして、有馬にそのことを告げましたが、それでも説得に応じませんでした。
使者達もこれ以上の説得は無理と判断し、遂に刀を抜きます。
寺田屋の中では、激しい斬り合いが始まり、藩士が藩士を斬る同志討ちが繰り広げられました。
有馬新七は、使者の道島五郎兵衛と組み合いとなり、同じ倒幕派の橋口吉之丞に自分ごと道島を刺すように指示します。
そして、橋口は指示通りに二人を刺したのです。
この斬り合いで、薩摩藩士は倒幕派と使者合わせて7人が現場で亡くなり、後に倒幕派2人が切腹することになりました。
この現場には、明治になって元帥となった大山巌(おおやまいわお)もおり、奈良原の必死の説得に従ったことを後に語っています。
薩摩寺と呼ばれる大黒寺
寺田屋事件で命を落とした9人の藩士は、寺田屋の北東の方角、京阪電車と近鉄電車の丹波橋駅から5分ほど歩いた場所に建つ大黒寺に葬られました。
大黒寺は、通称、薩摩寺とも呼ばれる薩摩藩と縁の深いお寺です。
ここで、西郷隆盛、大久保利通、坂本竜馬が薩長同盟の密議を行ったとも伝えられています。
また、大黒寺には、2001年に掘られた金運清水と呼ばれる井戸があります。
金運や資産増加のご利益があるそうです。
金運清水については、「塩哲の色即是空」さんの街を巡る 伏見の名水 金運清水の記事で紹介されていますのでご覧になってください。
なお、大黒寺については、下記のページを参考にしてみてください。