平安時代末期の源平の争乱は、壇ノ浦の戦い(1185年)で平家が滅亡したことによって終わりを告げます。
そして、平家滅亡によって源頼朝が鎌倉幕府を開くことになったわけですね。
源平の争乱は、簡単に言うと源氏と平家といった2つの武家の争いなのですが、そのきっかけを作ったのが、保元元年(1156年)に起こった保元の乱だったのです。
発端は朝廷の争いと藤原氏の争い
保元の乱は、久寿2年(1155年)に若くして近衛天皇(このえてんのう)が亡くなったことがきっかけで起こります。
近衛天皇には、後継ぎがいなかったため、崇徳上皇の長男の重仁親王が次の天皇となると思われていましたが、周囲の予想とは裏腹に後白河天皇が即位することになりました。
この辺りの経緯については、保元の乱の原因となった近衛天皇の崩御で書いていますので、ご覧になってください。
後白河天皇が即位したことで、当然、崇徳天皇は落胆します。
この朝廷の後継ぎ問題が争いの発端となるわけですが、他に藤原氏の中でも争いの火種がくすぶっていました。
近衛天皇が亡くなる前、摂政の職に就いていたのが藤原忠通でした。
忠通は忠実の長男で、藤原氏の後継ぎだったのですが、忠実は忠通よりもその弟の頼長を溺愛していました。
そこで、忠実は、鳥羽法皇に頼み、頼長に摂政の職を譲るように忠通に命じてもらいます。
そして、忠通は摂政の職を返上して関白となり、頼長は内覧という役職に就くことになりました。
藤原頼長の失脚
兄の忠通が摂政の職を失ったことで、弟の頼長は宮廷で権力を持ちます。
頼長は、近いうちに摂政の職に就けることを期待していました。
ところが、事態は一変し、頼長は失脚します。
その理由は、近衛天皇が亡くなったのは、忠実と頼長が呪詛したことによるという噂が流れたからです。
この噂を聞いた鳥羽法皇は激怒し、忠実と頼長を宮廷から遠ざけます。
これによって、頼長はあっという間に失脚してしまったのです。
宮廷から遠ざけられた頼長は、天皇を退位して権力を失い、ひっそりと暮らしていた崇徳上皇に近付きます。
また、反対に兄の忠通は、新たに即位した後白河天皇に接近していました。
鳥羽法皇の崩御
近衛天皇が亡くなった1年後の保元元年に今度は鳥羽法皇が亡くなります。
鳥羽法皇は、崇徳上皇の父ですが、法皇は上皇を嫌っていました。そのため、上皇は法皇の臨終に立ち会うことが許されず、葬儀にも参列することができませんでした。
それどころか、崇徳上皇は謀反の疑いをかけられ、遂に後白河天皇と衝突することになったのです。
後白河天皇は、鳥羽法皇が埋葬された鳥羽の安楽壽院から移動し、東三条殿を占拠します。
これに対して、崇徳上皇は、今の平安神宮付近の白川北殿を占拠しました。
そして、遂に保元の乱が始まることになったのです。
親兄弟が敵味方となった戦い
朝廷と藤原氏の争いは、武家にも波及します。
当時の武士は、朝廷や公家に雇われて戦をする存在で、傭兵のようなものでした。
後白河天皇方は、主に以下の武士を味方につけます。
- 平清盛
- 源義朝
- 源頼政
対する崇徳上皇方の主要部隊は以下の通りです。
- 平忠正
- 源為義
- 源為朝
保元の乱は、天皇方にも上皇方にも源氏と平家が加わっており、親族同士での戦いとなったのです。
平忠正は平清盛の叔父で、源為義は源義朝の父でした。
特に、源義朝は彼の妻である常盤御前が天皇方に仕えていたため天皇方に加わり、父だけでなく、為朝など多くの弟を相手に戦うこととなったのです。
自分の子供が敵についてしまった源為義でしたが、彼は、戦の前に義朝に源氏の嫡男が着ることになっている先祖伝来の源太産衣(げんたうぶぎ)の鎧を贈ったと言われています。
天皇方が上皇方を夜討ち
戦いは、天皇方が上皇方を夜討ちしたことで始まりました。
戦場は、今の平安神宮付近から三条大橋付近だったと伝えられています。
下の写真は、四条大橋から鴨川の北の方を写したものですが、鴨川を挟んで天皇方と上皇方が戦ったとされます。
大体、以下の地図のあたりが保元の乱の戦場になった場所だと推測できます。
数の上で天皇方が勝っており、しかも奇襲したことから、戦は天皇方の勝利に終わります。
戦後、崇徳上皇は、頭を丸めて仁和寺で謹慎していましたが、後に讃岐(香川県)に島流しとなります。
また、藤原頼長は、流れ矢にあたって戦死。
平忠正は、甥の清盛を頼って命乞いしますが、乱後に実権を握った信西(しんぜい/藤原通憲)の命によって、六条河原でその子の長盛らとともに清盛によって処刑されます。
源為義もその子・頼賢らとともに義朝の手によって処刑され、為朝は伊豆に島流しとなりました。
保元の乱後の恩賞
保元の乱は、親兄弟が敵味方となって戦ったわけですが、これによって源氏も平家も大きな打撃を受けました。
同じように天皇方のために戦った両家でしたが、乱後の恩賞には大きな開きがありました。
平清盛は、播磨守(はりまのかみ)に任ぜられ、播磨一国(兵庫県)を与えられたのに対して、源義朝は左馬頭(さまのかみ)という位を与えられただけでした。
戦功は義朝の方が上だったとされていますが、信西と清盛は乱の前からつながっていたことから、清盛の方が優遇されたわけです。
これには、義朝も不満を持ち、それが源氏と平家が対立する平治の乱の一因となったとも言われています。