10月22日に木屋町三条に見に行った時代祭。
室町洛中風俗列が賑やかに通過した後は、吉野時代の列がやって来ます。
吉野時代とは聞いたことがない人もいらっしゃるでしょうが、南北朝時代のことです。
奈良の吉野に南朝があったことから、吉野時代と言われているんですね。
楠公上洛列の登場
行列が、吉野時代の旗を先頭に河原町三条の交差点を左折し、三条通に入って来ました。

吉野時代
吉野時代の旗の後ろには、楠公上洛列(なんこうじょうらくれつ)の旗。

楠公上洛列
この列を奉仕するのは、平安講社第9社と第11社です。
元弘3年(1333年)6月に後醍醐天皇が配流先の隠岐から還幸した際、楠木正成が一族郎党を率いて兵庫に出迎え、先駆して上洛した時の様子を再現しています。
白色の菊水の旗と柿色の錦の御旗も三条通にやって来ました。

菊水紋旗と錦旗
後ろの壁が灰色であること、また、この日は曇りだったこともあり、菊水の旗も錦の御旗も、沈んだ色に見えました。
楠公一代の盛儀であった上洛の列には似合わない空模様ですね。
楠木正成は、建武の新政の功績から後醍醐天皇より菊紋を賜りましたが、畏れ多いということで、半分は水に流した菊水紋にしたと伝えられています。
そうすると、楠木正成が上洛した時には、まだ菊水紋を旗にしていなかったと思われますが、そこは深く考えないことにしましょう。
甲冑姿の楠木正成と楠木正季
列の先頭を貝役と太鼓が進みます。

法螺貝
ブオー、ブオーと腹の底から力を入れて吐き出す法螺貝の音は、これから合戦が始まるのかと思わせる迫力。
本列は、ほとんどの人が甲冑を身につけているので、織田公上洛列より勇ましく見えますね。
菊水の旗と錦の御旗の後ろから堂々と進む馬上の武士が楠木正成。
頭に被る大きな兜は三鍬形二方白五枚しころ兜(みつくわがたにほうしろごまいしころかぶと)。
「しころ」は「革」に「毎」と書きますが、漢字に変換できませんでした。

楠木正成
着用しているのは、赤地菊水文錦の鎧直垂(よろいひたたれ)に紫裾濃縅大鎧(むらさきすそごおどしおおよろい)。
制作費が1千万円ともいわれる甲冑は、主将らしい威圧感を放っていますね。
右がオレンジ、左が青の袖が、なかなかおしゃれであります。
左手には重藤の弓も握られていますよ。
ゆっくりと過ぎ去っていく楠木正成。

楠木正成の後ろ姿
腰にはきたるは、豹鞘に収めた兵庫鎖長覆輪太刀(ひょうごぐさりながふくりんのたち)。
背に負う矢を入れる箙(えびら)は、白猪逆頬箙(しろいさかつらえびら)。
肩を守る大袖は、上から下にかけて、白色が徐々に濃い紫色に変化しています。
楠木正成の次に登場したのが、弟の楠木正季(くすのきまさすえ)。
カメラ目線で写真撮影に応じてくれました。

楠木正季
頭に被るのは、長鍬形二方白五枚しころ兜(ながくわがたにほうしろごまいしころかぶと)で、鍬形が楠木正成より1本少ない2本となっています。
鎧は逆沢潟縅大鎧(さかおもだかおどしおおよろい)。
左手には保呂(ほろ)付け重藤の弓を持ち、右手は手綱を握っています。
信号待ちのため、しばらく輪乗りをしており、写真は撮り放題でした。
楠木正季の後ろからは、鎧櫃が進みます。

鎧櫃
同様の鎧櫃は楠木正成の後ろにも見られました。
このような備品も、何気に中世の軍隊らしさを演出していますね。
楠木正季の次の騎馬は侍大将です。

侍大将
兜には鍬形がなく、あっさりとしています。
楠木兄弟と異なり、鎧の下に着用している鎧直垂の色もやや地味。
それでも、歩いて進む兵たちより立派な衣装であることがわかります。
楠公上洛列の最後尾は、裃袴の人たちの列。

最後尾
最後尾は、どの列も同じですね。
楠公上洛列は、木屋町三条でちょうど信号待ちとなったため、兵たちの甲冑をじっくり見ることができましたよ。
この後は、中世婦人列の登場です。