京都市左京区の頂妙寺は、境内に建つ仁王門が仁王門通の由来となったことで知られています。
広い境内を持つ日蓮宗のお寺ですが、普段は参拝する人が少なく境内は静かです。
その頂妙寺の境内の北東角には、江戸時代の茶人である有隣軒輔信のお墓があります。
茶を慈胤法親王に学ぶ
頂妙寺には、地下鉄の三条京阪駅から川端通を北に約5分歩き、仁王門通を東に入れば到着します。
山門をくぐると、正面に仁王門が建ち、その奥に背の高い2本のイチョウと立派な本堂が現れます。
頂妙寺はイチョウの黄葉が美しく、毎年11月になると訪れたくなりますね。
本堂から北東に進むと、威徳善神を祀る祠が建っています。

威徳善神を祀る祠
その西側に有隣軒輔信のお墓があります。

有隣軒輔信の墓
有隣軒は号で、本名は鷹司輔信(たかつかさすけのぶ)といい、茶道を慈胤法親王(じいんほっしんのう)から学んでいます。
慈胤法親王は、現在の三千院である梶井門跡に入寺し、天台座主に3度就き、茶道や和歌にも秀でていたそうです。
有隣軒輔信のお墓が頂妙寺にあるのは、同寺内の蓮乗院に住んでいたからでしょう。
彼は、寛保元年(1741年)に亡くなっています。
長女の八重姫は徳川吉孚の正室
有隣軒輔信には、八重姫という長女がいました。
輔信より八重姫の方が有名かもしれませんね。
八重姫は、水戸藩主徳川綱条(とくがわつなえだ)の三男の徳川吉孚(とくがわよしざね)に嫁いでいます。
彼女は、父輔信の兄である叔父の鷹司兼煕(たかつかさかねひろ)の養女となり、その後、5代将軍徳川綱吉の養女となった後に吉孚の正室に迎えられることになりました。
吉孚との間には美代姫が誕生し、美代姫は4代藩主徳川宗堯(とくがわむねたか)の妻となって5代藩主宗翰(むねもと)を産むことになります。
水戸藩は、宗翰の子孫が代々藩主となり、幕末の藩主斉昭(なりあき)は、一橋慶喜こと後の15代将軍慶喜の父として知られています。
したがって、徳川慶喜には有隣軒輔信の血が流れているんですね。
八重姫が徳川吉孚に嫁いでいなければ、徳川慶喜の大政奉還もなく、日本は違った形で近代を迎えていた可能性があります。
有隣軒輔信についてネットで検索していると、彼ゆかりの品が骨董屋さんで売られていたり、オークションに出品されていたりするのを知りました。
あまり馴染みのない人物ですが、茶道の世界では有名人のようです。
何気なく参拝した頂妙寺の片隅にある有隣軒輔信のお墓から様々なことがわかりました。
これが、京都散策の楽しいところですね。
なお、頂妙寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。