京都市東山区の霊山(りょうぜん)に鎮座する京都霊山護国神社は、ペリー来航以降の幕末殉難者から第2次世界大戦までの英霊を祀っています。
明治元年(1868年)に我が国最初の官祭招魂社として創建され、墓地には、坂本竜馬のお墓があることは有名です。
そのお墓の脇には、明治37年12月に建立された墓碑があり、碑文には、明治天皇の皇后である昭憲皇太后の夢枕に坂本竜馬が現れた時の言葉が記されています。
墓碑の言葉
京都霊山護国神社には、京阪電車の祇園四条駅から南東に約20分歩くと到着します。
市バス停「東山安井」からだと東に徒歩約10分です。
東大路通から維新の道を東山に登って行くように進んでいくと、左手に京都霊山護国神社の入り口が現れます。
普段は境内に人が少な落ちつていお参りできますよ。
京都霊山護国神社の墓地に入るには、入場料300円が必要です。
そして、こちらが坂本竜馬のお墓です。
2つ並んでいますが、左が坂本竜馬のお墓で右が中岡慎太郎のお墓です。
毎年11月15日には、龍馬祭が催され、境内と墓地が大変賑やかになりますね。
上の写真の右端に写っているのが墓碑です。
以前に紹介した書籍『京都石碑探偵』に碑文の文章が紹介されているので引用します。
微臣モ及バズナガラ我海軍ヲ護リ候ヘバ、我邦ノ勝利ヲ得ルコト疑フベクモ候ハズ。冀(ねがわ)クバ御心安ク思召シ給ヘト言上スト見給フヤ、其姿失セタリシカバ、陛下ニハ深ク竜馬ノ忠魂ヲ嘉ミシ給ヒタリトゾ
明治37年は、日露戦争が始まった年です。
坂本竜馬が、昭憲皇太后の夢枕に現れ、日本海軍がロシア海軍に勝利することを予言したというはよく知られています。
墓碑も、この話を伝えるために同年12月に建立されたのでしょう。
ただ、この話は本当かどうか疑わしいところがあるようです。
同書によれば、東京の新聞各紙が伝え、時事新報も明治37年3月にその記事を掲載したとされていますが、京都石碑探偵の著者の伊東宗裕さんが調べたところ、時事新報の明治37年2月から3月の紙面に該当する記事は見当たらなかったそうです。
新聞各紙が報じたというのは、もしかしたら事実ではないのかもしれません。
とは言え、坂本竜馬が昭憲皇太后の夢枕に立った話は、当時、よく知られていたことなので、何らかの形で世間に広まっていたことは事実のようです。
明治政府内での土佐派の巻き返しのために流された噂だとする説もありますが、どうなのでしょうか。
こういうことはあまり深く考えるとロマンがなくなりますから、京都霊山護国神社に参拝した際は、何も知らなかったことにして坂本竜馬のお墓にお参りしましょう。
ここまで書いたところで、『京都石碑探偵』の83ページに明治37年4月13日付の時事新報に昭憲皇太后の夢枕に坂本龍馬が立ったという記事が紹介されていることに気づきました。
当時、誰かが流したデマではなかったということですね。
なお、京都霊山護国神社の詳細については以下のページを参考にしてみてください。