京都市上京区の本満寺は、境内に立派な枝垂れ桜が植えられていることで知られ、春になると多くの旅行者や観光客がお花見に訪れます。
当寺の墓地には、尼子氏の忠臣として知られる戦国武将の山中鹿之助のお墓があります。
一般のお墓に混ざっている山中鹿之助の墓
本満寺には、京阪電車の出町柳駅から北西に約10分歩くと到着します。
地下鉄だと、今出川駅から東に徒歩約12分です。
寺町通に面する本満寺の入り口には、ここが山中鹿之助の墓所であることを示す背の低い石柱が立っています。
参道を東に歩き、枝垂れ桜を過ぎた先に本堂があります。
この本堂を過ぎ、北に歩くと、墓地があります。
山中鹿之助の墓は、墓地を入った東にあります。
周囲には、一般の方のお墓がたくさんあるので、どれが山中鹿之助の墓か探すのが大変です。
でも、山中鹿之助の墓であることを示す白い小さな看板がお墓の足元に置かれているので、探し出すことはできるでしょう。
お墓の左前には、「尼子忠臣山中幸盛卿之墓」と刻まれた石柱が立っています。
幸盛は、山中鹿之助の諱(いみな)です。
幸盛より、鹿之助の方が有名ですね。
山中鹿之助は、山陰地方の尼子氏の家臣として仕えていましたが、同氏が毛利氏によって滅ぼされたことから牢人となります。
牢人となった山中鹿之助ですが、尼子氏の再興のため、何度も毛利と戦い続けます。
しかし、そのたびに山中鹿之助は敗れ、やがて、上洛して織田信長を頼ることになります。
織田信長に仕えた山中鹿之助は、信貴山城(しぎさんじょう)にたてこもる松永久秀との戦いで活躍するなどの手柄を立てました。
その後、織田信長が羽柴秀吉を播磨攻めに向かわせた際、山中鹿之助も従軍し、毛利の上月城(こうづきじょう)を攻め落とし拠点としました。
ところが、三木城の別所長治が毛利に寝返ると、これを好機と捉えた毛利の吉川元春らが上月城を取り囲み、山中鹿之助は窮地に陥ります。
羽柴秀吉は、上月城の救援に向かおうとしますが、織田信長が三木城の攻略を優先したため、山中鹿之助は孤立してしまいました。
やがて、上月城の兵糧が尽き、山中鹿之助は、毛利に降伏することに。
生け捕られた山中鹿之助は、備中松山城に連れていかれる途中で、毛利の家臣により暗殺され、この世を去っています。
本満寺の山中鹿之助のお墓は、江戸時代になり、山中氏の子孫によって建立されたものです。
春に枝垂れ桜を見に本満寺に参拝した際は、山中鹿之助のお墓にもお参りをしてはいかがでしょうか。
なお、本満寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。