京都市東山区の三条通には、京の七口の一つである粟田口(あわたぐち)がありました。
粟田口の周辺は、江戸時代に粟田焼が盛んで、また、平安時代後期から室町時代には刀鍛冶も多く住んでいました。
その粟田口の近くにある粟田神社には、宝物殿があり、粟田焼や刀剣を無料で拝観することができます。
粟田焼
粟田神社には、地下鉄の東山駅から東に約5分歩くと到着します。
三条通に面する粟田神社の入り口近くには、この辺りが粟田焼発祥の地であったことを示す石柱が立っています。
参道を南に歩き、坂を上った先に粟田神社の境内があります。
そして、境内の南の端に宝物殿があります。
宝物殿は、無料で入れますが、いくらか志納しておきましょう。
宝物殿に入ると、正面に粟田焼がいくつか並んでいます。
説明書によると、粟田焼は、江戸時代初期の寛永年間(1624-1644年)に瀬戸の陶工であった三文字屋久右衛門が三条蹴上今道町にて茶器を焼き広めたそうです。
粟田神社の付近から東の蹴上にかけて窯が建ち並び、青蓮院の庇護を受けて、清水をしのぐほどの隆盛を誇ったとのこと。
清水焼は、今でも有名ですが、粟田焼は聞きなれない方が多いのではないでしょうか。
粟田焼の特徴は、生地が薄卵色で細かい裂紋(貫入)が入り、もし毒薬を投入すると、たちまち色が変わると言われ、朝廷や幕府など高貴な人々に重用されたそうです。
仁清の色絵を取り入れた色絵陶器も、その特徴の一つです。
明治から昭和にかけて海外輸出に力を入れた粟田焼ですが、昭和の初めの世界大恐慌などもあり、その後、一時途絶えます。
しかし、平成7年(1995年)に元の窯元である鍵屋安田氏が粟田焼を復興し、以来、茶器を中心に作陶されているそうです。
粟田焼が、あまり馴染みがないのは、このような経緯があったからなんですね。
宝物殿に展示されている粟田焼には、瑠璃薩摩花瓶、山水図瓶、白甕線刻花瓶などがありました。
どれも上品に見えましたよ。
刀剣
刀剣は、粟田口一竿子忠綱(いっかんしただつな)の名が入ったものが展示されていました。
長さは、二尺二寸五分五厘(約68cm)です。
室内のライトが当たると、刀身が光を放っているように見えます。
一竿子忠綱は、江戸時代初期の摂津の陶工で、鎌倉時代の粟田口国綱の末裔と伝えられています。
大阪新刀の三傑と呼ばれ、刀身彫りの名手ですが、宝物殿に展示されている刀には彫りはありません。
粟田神社の境内には、鍛冶神社もあり、刀剣好きの方々に人気があり、御朱印をいただく参拝者の姿も見かけます。
粟田焼も刀剣も、どれも貴重な品々ですから、粟田神社に参拝した時には、宝物殿の中も拝観したいですね。
他に粟田祭に関係する品なども展示されていますよ。
なお、粟田神社の詳細については以下のページを参考にしてみてください。