京都市中京区の木屋町二条から鴨川と並行するように南に向かって高瀬川が流れています。
高瀬川は江戸時代の始めに角倉了以(すみのくらりょうい)が開削した運河で、伏見まで続いており、当時の京都の物流を支える重要な役割を果たしていました。
その高瀬川には、荷物の積み下ろしをする船入と呼ばれる船溜まりがあり、二条から四条の間に9ヶ所作られました。
恵比須橋付近にある四之船入址の石碑
地下鉄京都市役所前駅から北東に5分ほど歩くと、高瀬川の北の起点である一之船入があります。
ホテルオークラ京都の北東角ですね。
今でも、一之船入には往時をしのばせる高瀬舟が浮かんでいます。
この一之船入の近くには、角倉了以の邸宅があったのですが、現在は和食がんこのお屋敷・高瀬川二条苑になっています。
一之船入ということから、最初にできた船入だと思いそうですが、そうではありません。
ここより南に歩き、御池通を過ぎ、恵比須橋の近くにやって来ると「四之船入址」と刻まれた石碑が立っています。
ここ四之船入址こそが、高瀬川に最初にできた船入です。
岩波新書の『京都の歴史を歩く』によれば、角倉了以は、慶長17年(1612年)にここに船入を作り、北側に生州を設けたとのこと。
船入には、材木や薪炭の荷揚げのための浜があり、薪炭商などの納屋が建ち並んでいました。
そして、恵比須橋は、四之船入の浜地に渡るために架けられたことから納屋橋とも呼ばれていたそうです。
現在残っている船入は、一之船入だけで、その他はすべて埋め立てられています。
三之船入や四之船入があった御池通から三条通までの木屋町通沿いは、繁華街が多いこの界隈にしては人や車が少なく、春でも高瀬川と桜を見ながら静かに歩くことができます。
江戸時代に材木や薪炭の荷揚げで賑わっていたとは、とても想像ができませんね。
高瀬川の舟運は、明治以降、次第に廃れていき、大正9年(1920年)に廃止されました。
この頃に高瀬川を埋め立て木屋町通を拡幅する計画が持ち上がりましたが、それに反対する人々が高瀬川の歴史上・景観上の価値を訴え、同8年に公布された史跡名勝天然記念物保存法に反すると主張し、同11年に木屋町通の西にある河原町通が拡幅されることとなりました。
そして、昭和9年(1934年)に高瀬川一之船入が史跡に指定され、今も残されています。
また、四之船入址の石碑も平成22年(2010年)に建立され、恵比須橋付近が高瀬川に最初にできた船入だとわかるようになりました。