京都市中京区に建つ壬生寺(みぶでら)は、新撰組ゆかりのお寺として有名です。
境内の壬生塚には、新撰組局長の近藤勇他、新撰組隊士のお墓があり、新撰組ファンの方々の参拝が絶えません。
その壬生塚には、参拝者にあまり注目されていない壬生官務家(みぶかんむけ)墓塔もあります。
壬生官務家墓塔
壬生寺は、阪急電車の大宮駅または京福電車の四条大宮駅から南西に10分ほど歩いた辺りに建っています。
お寺に入るのに拝観料は必要ありませんが、壬生塚に入るには200円を納める必要があります。
壬生塚に入ると、大小2基の五輪塔が並んでおり、これが壬生官務家の墓塔です。
下の写真だと、右側に写っているのが大きい方の墓塔です。
小さい墓塔は、その隣にあるのですが写真には写っていません。
壬生官務家は、中世から近世の官人であった小槻宿禰(おづきのすくね)氏のことです。
平安時代に壬生寺の東側に住んでいたことから壬生家を名乗るようになったそうです。
壬生家は、代々、太政官の弁官局の責任者である左大史(さだいし)を世襲し、それにより官務家と呼ばれるようになりました。
この左大史の役目は朝廷の公式文書を発給することですから、壬生官務家は朝廷の文書管理を担当した家ということですね。
壬生官務家は、朝廷の文書保管に命をかけていたそうで、以前に紹介した「京都 知られざる歴史探検」の下巻に以下の話が掲載されています。
平清盛によるいわゆる「福原遷都」事件(治承四年<一一八〇>)の際、右大臣藤原(九条)兼実は遷都計画に対する意見を聞くために、官務家当主の小槻隆職のところを訪れた。そこで隆職が参考資料として持ち出したのは、なんと奈良時代の平城京の図だったのである。四百年近く前の都の図面がすぐにでてくるというだけでも驚きなのだが、実はこの直前の治承元年(一一七七)、京都は安元の大火(太郎焼亡)と呼ばれる大火災によって焼きつくされ、隆職の壬生の邸宅も罹災しているのである。この大災害の中にあってすら、小槻氏は貴重な文書をしっかりと守り続けていたことになる。
現在では、壬生家文書は、朝廷の歴史の研究になくてはならない史料となっているとのこと。
もしも、壬生官務家が、これら史料を保管していなければ、解明できなかった歴史の事実があるかもしれません。
そう考えると、壬生官務家の仕事は、歴史的に重要なことだとわかりますね。
人丸塚
壬生塚にある人丸塚(ひとまるづか)も紹介しておきましょう。
この塚は、万葉集で知られる歌人・柿本人麻呂の灰塚と伝えられており、現在の碑は大正時代に建立されました。
「人麻呂」が「人丸」になり、「火止まる」に通じることから、火除けのご利益があると言われています。
今も京都の街を火災から守ってくれているのでしょうね。
壬生寺にお参りした時は、ぜひ壬生塚も拝観してください。
新撰組関連の石碑以外にも、様々な石碑がありますよ。
なお、壬生寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。