京都市上京区の七本松通出水下ルに観音寺というお寺が建っています。
観音寺という名のお寺は、京都市内だけでなく全国にたくさんありますが、こちらは慈眼山と号する観音寺です。
この慈眼山観音寺の山門は、かつて「百たたきの門」と呼ばれていました。
一体なぜ、このような呼ばれ方をしていたのでしょうか。
桃山城の牢屋の門
観音寺には、JR円町駅から北東に7分ほど歩くと到着します。
観光寺院ではなさそうですが、山門前に京都市の駒札が立っているので、何かのいわれがありそうなお寺だとわかります。
その説明書によると、慈眼山観音寺は、慶長12年(1607年)に梅林和尚が、ここより東の一条室町に創建したのが始まりとのこと。
天明の大火(1788年)に遭って、建物をはじめ記録を焼失したことから、正確な寺史は困難になっているそうです。
こちらが、百たたきの門と呼ばれていた山門です。
この山門は、旧桃山城の牢獄の門を移築したものと伝えられています。
罪人が釈放される際、この門前で100回叩かれたことから、「百たたきの門」と呼ばれていたのだとか。
門の扉は、クスノキの一枚板でできているとのことですが、今は、何枚かの板をはめているようです。
でも、よく見ると各板の木目がつながっていますから、もとは1枚の板で、その後、何らかの理由で割れたのかもしれません。
この百たたきの門の右側に設けられた潜り戸が、風で開くとき、罪人の鳴き声に聞こえるのだとか。
背筋がゾッとする言い伝えであります。
境内を少し覗いてみました。
境内に建つ観音堂の本尊は、運慶の弟子の安阿弥の造顕といわれています。
もとは堀川一条にあって、1390年に疫癘(えきれい)の時、死屍を捨てるものが多く、山名重氏が鎮疫を祈念し、霊験により死屍を蘇生させたと伝えられています。
また、延喜18年(918年)に亡くなった三善清行の葬送の時、子の浄蔵が仏神に祈って蘇生させたと伝わる返り橋の名は戻り橋と呼ばれ、観音堂の信仰を集めて千人堂と称せられるようになったのだとか。
観音堂は、慶長年間に現地に移されたということですから観音寺の創建の頃ですね。
移転は、観音寺の創建前なのか創建後なのか、説明書を読むだけではわかりませんが、移転時期から想像すると、観音寺創建と何らかの関係があったのかもしれません。
百たたきの門や蘇生の伝説が残る観音寺は、少し怖いお寺ですね。
また、境内には「よなき地蔵」も祀られているそうです。