奈良時代に橘諸兄(たちばなのもろえ)という人物がいました。
井手左大臣とも呼ばれた公卿です。
井手とは、京都府綴喜郡井手町のことで、橘諸兄は井手と深い関係があり、今も井手町には彼の旧跡が残っています。
橘諸兄公旧趾
JR玉水駅から、玉川沿いに東に20分ほど歩くと、橘諸兄公旧趾があります。
途中、緩やかな上り坂があり、橘諸兄公旧趾の入り口に来るのは若干疲れます。
入り口から雑木林の中に入っていきます。
こんなところに本当に史跡があるのかと不安になりながら歩いて行きます。
でも、このようなところだからこそ、史跡が残っているのだと不安になる気持ちを打ち消しながら進んでいくと、橘諸兄公旧趾参道と刻まれた石柱がありました。
どうやら、この石段の上に橘諸兄公旧趾があるようです。
石段を上ると、家が1軒建つくらいの平らな敷地があり、その中央に「橘諸兄公旧趾」と刻まれた大きな石碑が置かれていました。
橘諸兄は、天武13年(684年)に美努王(みぬおう)と県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)との間に生まれました。
敏達天皇5世の孫、光明皇后の異父兄でもあります。
元の名は、葛木王(かつらぎのおおきみ)と言いましたが、後に母の氏を賜って橘諸兄と改めます。
橘諸兄は、天平10年(738年)より右大臣、同15年に左大臣となり、天平勝宝8年(756年)まで奈良時代の全盛期を首班として生き、聖武天皇を補佐してきました。
橘諸兄が政治の中心で活躍していた頃、聖武天皇の相楽別業(橘諸兄の井手の別荘)・玉井頓宮(たまいとんぐう)への行幸、恭仁京遷都、大仏建立・開眼供養などがありました。
橘諸兄公旧趾の説明書によると、橘諸兄は、井手に井提寺を建立し、清涼な玉川を愛しヤマブキを植え続けたので、多くの文学に見える「名所井手の里」を生み出したとのこと。
聖武天皇が崩御された翌年天平勝宝9年正月6日に橘諸兄は74歳で亡くなりました。
橘諸兄公旧趾の石碑の近くには、彼の供養塔もあります。
また、供養塔の近くには、「郡山うねめまつり50周年記念植樹」として、橘の木も植えられています。
まだ、背の低い橘の木ですが、いずれは大きくなることでしょう。
六角井戸
JR玉水駅から南に15分ほど歩いた辺りにも、橘諸兄ゆかりの史跡があります。
その史跡は六角井戸と呼ばれ、今も井戸が残っています。
六角井戸は、橘諸兄の玉井頓宮のなごりとして今に伝えられています。
その名のとおり、井戸は六角形に組まれており、とても珍しい姿をしています。
蓋がしてあるので、井戸の中がどうなっているのかはわかりません。
玉井頓宮には、天平12年に聖武天皇が、恭仁京へ遷都する旅の途中に仮り宮として訪ねた他、数度にわたって行幸されたと伝えられています。
六角井戸のそばには、橘諸兄が聖武天皇を迎えた時に詠んだ歌の石碑があります。
石碑に刻まれている歌は以下になります。
葎はふ 賤しきやども 大君の 座さむと知らば 玉敷かましを
葎(むぐら)とは雑草が茂っている様を表しています。
近くの説明書によると歌の大意は、「雑草の茂るような家でもいらっしゃると知っていたなら玉を敷いておくのでしたのに」とのこと。
民家が建ち並ぶ一角に六角井戸のような史跡が残っているのは、とても貴重なことではないでしょうか。
六角井戸も含め、井手町はこれからも橘諸兄ゆかりの地として、後世に伝えられていくことでしょう。