戦国時代の終焉に大きく貢献した織田信長は、京都に20回以上訪れたことがあります。
最初に上洛した時には東山区の東福寺に陣を布き、亡くなった時は中京区の本能寺に泊まっていました。
特に本能寺の変が歴史的に有名なため、本能寺が信長在京中の定宿だったと思われている節がありますが、実は信長が定宿としていたのは上京区の妙覚寺です。
18回の宿泊
妙覚寺は、地下鉄鞍馬口駅から西に5分ほど歩いた辺りに建っています。
南北朝時代に創建された日蓮宗のお寺で、今も街中にありながら広大な敷地を有しています。
織田信長が上洛時の宿所に妙覚寺を選んだのは、当寺の19世日饒(にちじょう)上人が斎藤道三の子であった縁からだとされています。
斎藤道三は美濃の領主で、娘の濃姫は織田信長に嫁いでいます。
信長の上洛20数回のうち、妙覚寺を宿所した回数は18回です。
これだけの宿泊数ですから、信長の定宿は妙覚寺だったと言えるでしょう。
妙覚寺の拝観時にいただいた説明書には、斎藤道三との関係の他に信長は浄土真宗や比叡山を中心とする天台宗と対立していたため、両者に対抗できる力を持っていた日蓮宗寺院を選んだといった旨が記載されています。
また、当時の有力寺院は、広大な敷地と砦のような機能を備えていたので、多くの兵士を集結させれる軍事拠点に最適だったとも考えられています。
本能寺の変の時は織田信忠が宿泊していた
天正10年(1582年)6月2日に起こった本能寺の変で、織田信長は明智光秀に討ち取られます。
本能寺は、妙覚寺から約2kmほど南にあります。
明智光秀は1万3千の兵を率いて本能寺に討ち入りましたが、その時、信長を守るのは100人いるかどうかの少人数。
さすがに戦力に差があり過ぎるので、信長も明智光秀軍を防ぎきることができませんでした。
本能寺の変が起こった時、信長の嫡男信忠は妙覚寺に宿泊していました。
信忠の元には3千の兵がいたとされています。
信忠は、本能寺の変の報告を受けてすぐに妙覚寺の東の二条御所にたてこもり明智軍を迎え撃ちましたが、こちらも多勢に無勢だったため、信忠も討ち取られてしまいました。
明智光秀が、本能寺と妙覚寺の両方を同時に囲まなかったのには謎が残ります。
信忠が本能寺の変の報せを受けた後、すぐに安土城に落ちのびていたら歴史は大きく変わっていたでしょう。
信長を討ち取っても信忠が生きている限り、織田から天下を奪い取ることはできません。
明智光秀は、信忠のことが頭になかったのか、それとも信忠を取るに足らない人物と考えていたのでしょうか。
聚楽第の遺構の大門
織田信長を討ち取った明智光秀も、山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れこの世を去りました。
その後、天下を統一した豊臣秀吉は京都に聚楽第を建設します。
聚楽第は現在はありませんが、その遺構は、京都市内にいくつか残っています。
ここ妙覚寺の表門である大門も、聚楽第の裏門を移築したものだと伝わっています。
春になると桃山時代の豪壮な大門前で、枝垂れ桜が花を咲かせ、地元の人たちの目を楽しませてくれます。
今は、参拝者が少ない静かなお寺ですが、織田信長が宿所としていた頃は、多くの兵士が出入りし賑やかだったのでしょうね。
なお、妙覚寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。