慶応4年(1868年)正月3日に起こった鳥羽伏見の戦いは、明治新政府軍と旧幕府軍とが1年半に渡り戦った戊辰戦争(ぼしんせんそう)の始まりでした。
戦場になったのは、その名のとおり京都の鳥羽と伏見です。
薩摩藩と長州藩を主体とする新政府軍は旧幕府軍よりも兵力は少なかったものの、最新の武器を装備していたことで、この戦いに勝利しました。
鳥羽伏見の戦いには薩摩藩から西郷隆盛も参戦しています。
彼は、東山の即宗院に陣を構え、裏山に大砲を並べて旧幕府軍に向かって砲撃し、鳥羽伏見の戦いの勝利に貢献しました。
薩摩藩士の戦死者524名
西郷隆盛が布陣した即宗院は、東福寺の山内にあります。
即宗院は、南北朝時代の元中4年(1387年)に薩摩藩東福寺城の守護大名であった島津氏久の菩提のために建立された寺院で、江戸時代に島津家久が再興して以来、薩摩藩の畿内菩提所となりました。
そのため、薩摩藩と即宗院は深い関係があり、鳥羽伏見の戦いで薩摩藩が当院に陣を布くことになったのでしょう。
鳥羽伏見の戦いに勝利した薩摩藩は、東へと進軍し、西郷隆盛の活躍で江戸城無血開城が実現します。
これに反対する幕臣たちで構成された彰義隊(しょうぎたい)と新政府軍は上野で戦うことになりましたが、長州藩の大村益次郎が作戦指揮を執り壊滅させました。
その後、会津へと転戦した新政府軍は、東北諸藩との戦いにも勝利します。
この時点で戊辰戦争はほぼ終結し、日本は明治という新たな時代に変わっていきました。
鳥羽伏見の戦いから会津戦争までの薩摩藩士の戦死者は524名とされています。
西郷隆盛自筆の石碑
西郷隆盛は、明治2年(1869年)に明治維新で戦死した藩士の霊を供養するため斎戒沐浴し、524霊の揮毫(きごう)を行い、薩摩藩士東征戦亡之碑を建立しました。
この碑は、現在も即宗院の裏山にあります。
山門をくぐり境内の奥へと進むと、かつて採薪亭(さいしんてい)という茶亭があった場所に到着します。
採薪亭の跡地には「西郷隆盛密議の地」と書かれた説明書が立っています。
西郷隆盛は、井伊直弼が大老を勤めていた頃に藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)を補佐して幕政改革のために働きました。
その頃、幕府では将軍継嗣問題が持ち上がり、紀州の徳川慶福(とくがわよしとみ)と水戸の一橋慶喜のどちらを次期将軍にすべきか議論が交わされており、薩摩藩は一橋慶喜を推していました。
しかし、井伊直弼は徳川慶福を14代将軍とすることを決定し、幕政に口を挟んだ者たちを次々と処分する安政の大獄を行いました。
西郷隆盛も、清水寺成就院の僧月照と幕政に関する密議を行っていたことが幕府に知られ処分の対象となります。
2人は、追手から逃れようとするものの、逃げ切れないと観念し入水自殺をしました。
しかし、西郷隆盛だけは生き残り、藩から島流しの処分を受けました。
幕末に西郷隆盛と月照が密議を行っていたのが、即宗院の境内奥深くにあった採薪亭でした。
他にも、清水寺の裏にある清閑寺でも、2人が密議を行ったと伝えられています。
採薪亭の跡地から石段を上っていくと、「至羅漢道」と刻まれた石柱が立っています。
ここからさらに石段を上り、右に曲がると正面に石造りの鳥居が現れます。
鳥居の奥には、大きな石碑が5つ置かれており、その中のひとつだけ列から外れています。
これが、西郷隆盛自筆の薩摩藩士東征戦亡之碑です。
碑文は漢字だらけなので、何が書いてあるのかわかりませんが、「鳥羽」、「慶喜」、「会津」といった言葉が刻まれているので、鳥羽伏見の戦いや会津戦争のことが書いているのだなと想像はできます。
その他の4つの石碑には、戦死した薩摩藩士524名の名が刻まれています。
即宗院には、幕末の薩摩藩士たちの墓碑もあります。
寺田屋事件で島津久光の命を受けて藩士たちの暴発を防ぎ、その後、生麦村で大名行列を横切る英国人に斬りつけた奈良原喜左衛門、猿ヶ辻の変で姉小路公知暗殺の下手人と疑われ自害した人斬り新兵衛こと田中新兵衛の墓碑も即宗院にあります。
即宗院は通常非公開のお寺ですが、毎年秋に特別公開が行われます。
その他の機会にも特別公開されることがあるでしょうから、参拝時は裏山に登って、西郷隆盛自筆の薩摩藩士東征戦亡之碑も見ておきたいですね。
なお、即宗院の詳細については以下のページを参考にしてみてください。