清水寺にある阿弖流為と母礼の顕彰碑

京都市東山区に建つ清水寺は、世界遺産に登録されていることもあって、毎年多くの旅行者や観光客が参拝する寺院となっています。

清水の舞台から眺める景色は絶景と言うにふさわしいですね。

その清水の舞台の下に顕彰碑が置かれています。

顕彰碑は、阿弖流為(あてるい)と母礼(もれ)を顕彰したものです。

坂上田村麻呂の蝦夷征討

阿弖流為と母礼は、平安時代初期に東北地方に住んでいた人物です。

彼らは、坂上田村麻呂が蝦夷征討のために東北地方に来襲した際、勇敢に戦いました。

阿弖流為と母礼たちは、10年以上に渡って中央政府と戦い続けましたが、奮闘むなしく、坂上田村麻呂の軍門に降りました。

そして、阿弖流為と母礼は、京都に連行されます。

坂上田村麻呂は、2人の武勇を惜しみ政府に助命嘆願をしました。

しかし、田村麻呂の嘆願は聞き入れられず2人は延暦21年(802年)に河内国で処刑されました。

農業指導のために東北に赴いた坂上田村麻呂

一般的に征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂の蝦夷征討は、武力によって東北の人々を従えようとしたものだとされています。

しかし、坂上田村麻呂の蝦夷征討はそれだけが目的ではなく、東北地方に農業を指導することも目的だったと言われています。

当時の東北地方に住んでいた人々は、まだ稲作を行っていませんでした。

そこで、中央政府は坂上田村麻呂に農具を持たせて東北地方に赴かせ、現地の人々に農業指導をさせます。

中央政府が、わざわざ東北地方に農業指導を行ったのは、当時の平安京の人口が40万人にも達していたことが理由です。

平安京は余剰人口を抱えており、移住を進めるために東北地方を開拓して農業ができる土地にする必要があったのです。

また、東北地方で農業がおこなわれると税を徴収できるようになるので、政府の財政面からも東北地方での農業指導は有益なものでした。

以上のような坂上田村麻呂の蝦夷征討の目的が農業指導にあったとする説は、樋口清之氏の「うめぼし博士の逆(さかさ)・日本史〈貴族の時代編〉平安→奈良→古代」に書かれています。

同書によれば、昭和30年(1955年)に坂上田村麻呂が東北地方に築いた胆沢城の発掘調査をした際、城の中に農場試験場が作られていたことがわかったとのこと。

坂上田村麻呂が農業指導のために東北地方に赴いたのなら、なぜ、阿弖流為と母礼が処刑されたのか謎です。

当時の蝦夷と呼ばれていた人々への差別意識から処刑されたのでしょうか。

坂上田村麻呂が、蝦夷征討に出かけた時、清水寺の観音さまの両脇士である毘沙門天と地蔵菩薩が現れて加勢したという伝説が残っています。

清水寺の開基は坂上田村麻呂ですから、そのような伝説が残っていても不思議ではないですね。

そして、坂上田村麻呂と縁のあることが理由で、清水寺境内に阿弖流為と母礼の顕彰碑が建立されたのでしょう。

阿弖流為と母礼の顕彰碑

阿弖流為と母礼の顕彰碑

顕彰碑の右上の方には「北天の雄」と刻まれており、阿弖流為と母礼の武勇が讃えられています。

なお、清水寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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