京都市西京区に建つ月読神社(つきよみじんじゃ)は、京都市内でも比較的長い歴史を持つ神社です。
創建年代は5世紀の顕宗天皇3年というのですから、京都市内で月読神社よりも古い神社を探す方が難しいくらいです。
月読神社の創建当初、神官となったのは押見宿禰(おしみのすくね)です。
松室氏の祖押見宿禰
月読神社は、阪急電車の松尾大社駅から南西に10分ほど歩いた辺りにあります。
境内の入り口には朱色の鳥居が建っています。
この鳥居から少し北に歩くと、押見宿祢霊社遺跡碑があります。
その昔、阿閉臣事代(あへのおみことしろ)が勅命により任那(みまな)に赴く際、月神があらわれて我が月神を祀るように言ったとのこと。
そして、阿閉臣事代は帰郷後に大堰川の岸辺の歌荒樔田(うたあらすだ)に天月読命(あまのつくよみのみこと)を祀ったそうです。
これが、月読神社の始まりとされています。
神官となったのは押見宿禰で、以後、彼の子孫が後を継ぎ伊岐氏(壱岐氏)を名乗るようになりました。
しかし、9世紀に入って水害に遭ったことから、現在地に移転します。
その時に伊岐氏は松室氏を称するようになったそうです。
松室氏は、その後栄えて12世紀初頭には二条天皇の皇后で六条天皇の生母である育子を出すにいたります。
さらに江戸時代には、その子孫たちのうち男子が非蔵人、女子が御局として宮中に仕える者が多かったようです。
しかし、明治維新によって世の中が大きく変化すると、一族は四散してしまいました。
上に掲載した押見宿祢霊社遺跡碑は、昭和42年(1967年)に松室同族会によって建立されたものです。
長い年月、松室氏が神官を勤めてきた月読神社には、押見宿禰を祀る社があったと伝えられていますが、現在は存在しません。
押見宿祢霊社遺跡碑は、その跡を示すために建立されたそうです。
京都市内には、多くの史跡があります。
でも、史跡は、それを示す石碑などがなければ誰も気づきませんし、時の流れとともに忘れ去られてしまいます。
現在、京都市内の多くの史跡に石碑があるのも、松室同族会のような有志の方たちのおかげなのでしょう。
こうやって史跡巡りをできるのですから、石碑を建立した方々に感謝しないといけませんね。
江戸時代になって月読神社は近くの松尾大社(まつのおたいしゃ)に帰属し、現在もその境外摂社となっています。
なお、月読神社の詳細については以下のページを参考にしてみてください。