天正元年(1573年)。
織田信長が力を持ち始めた頃、彼があっけなく命を落とすことを予言した人物がいました。
その人物の名は、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)。
「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」
安国寺恵瓊は、織田信長の死を予言し、その後、信長の家臣に過ぎない木下藤吉郎(豊臣秀吉)が天下をとることを言い当てたのですから、戦国時代最高の予言者だと言えるでしょう。
安国寺で修業し東福寺へ入る
恵瓊は、天文7年(1538年)に安芸国の守護武田家の一族として生まれます。
しかし、武田家は、天文10年に大内氏との戦いで滅亡したため、恵瓊は4歳で安国寺に身を寄せることになりました。
その後、12年間、安国寺で修業した恵瓊は16歳の時に生涯の師と仰ぐことになる笠雲恵心に出会い、京都の東福寺に入ります。
天正2年、恵瓊35歳の時、正式に安芸安国寺の住持となりました。
織田の中国攻めで毛利の使者をつとめる
笠雲恵心が、毛利家と親交があった縁で、恵瓊も毛利家の政治に関わるようになります。
恵瓊が毛利の外交僧として働いた中で、最も有名なのが、天正10年の織田軍の中国攻めの時の交渉です。
羽柴秀吉と名を変えた木下藤吉郎が、織田軍の武将として備中高松城を水攻めにしていた際、恵瓊は毛利側の使者として秀吉との交渉にあたり、和睦を成立させます。
その後、羽柴秀吉は直ちに京都に戻り、天王山の戦いで明智光秀を破り、天下統一への道を進み始めます。
そして、秀吉の天下となった時、恵瓊は秀吉の直臣に取り立てられ、伊予国2万3千石を与えられました。
関ヶ原の戦いで西軍に味方する
時は流れ、慶長5年(1600年)。
安国寺恵瓊は、関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍に味方しました。
豊臣家への忠誠心、石田三成との親交など、恵瓊が西軍に味方した理由はいろいろとあったと思います。
でも、恵瓊が西軍に味方したのは、西軍が東軍よりも有利と判断したことが最大の理由でしょう。
さて、関ヶ原の戦いで、恵瓊は南宮山のふもとに陣を構えました。
その頂上には、主家の毛利秀元と吉川広家が布陣。
ちょうど東軍の総大将徳川家康の本陣の後ろに陣取ったことになります。
しかし、戦いが始まっても、恵瓊はまったく動こうとしません。
山頂の毛利秀元が、恵瓊に戦いの指示を出さなかったからです。
もともと毛利家は、吉川広家が徳川家康と内通していたので、東軍に攻撃を仕掛けるつもりはありませんでした。
結局、恵瓊は関ヶ原で戦うことなく敗軍の将となり上方に引き上げます。
そして、東軍に捕えられ、京都の六条河原で斬首されました。
享年63歳。
安国寺恵瓊の首塚
京都市東山区に建つ建仁寺には、慶長4年に安国寺恵瓊が、安芸の安国寺から移建した方丈が今も残っています。
恵瓊は、建仁寺の再建に尽力したことで知られていますね。
その縁だったのでしょう。
建仁寺の僧侶が、六条河原にさらされた安国寺恵瓊の首を持ち帰り、それを方丈の裏に埋葬しました。
現在も、安国寺恵瓊の首塚は、建仁寺の方丈の裏にひっそりと残っています。
織田信長の急死、豊臣秀吉の天下統一。
これらを予言した安国寺恵瓊が、関ヶ原の戦いで東軍が勝つことを見極められなかったのは、何とも皮肉なことです。
なお、建仁寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。