京都市左京区の岡崎の辺りには、平安時代、六勝寺と総称される6つのお寺が建っていました。
いずれも歴代の天皇等の御願によって建立されたお寺です。
六勝寺の6つのお寺とは、法勝寺(ほっしょうじ)、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺(じょうしょうじ)、延勝寺です。
このうち尊勝寺は、平安神宮の西にある府営住宅西天王町団地が跡地とされています。
昔は観音堂が建っていた
下の写真に写っているのが、尊勝寺の跡地です。
説明書によると、この地の発掘調査は昭和61年(1986年)に行われ、その時に尊勝寺の御堂(みどう)跡がみつかったとのこと。
尊勝寺は、堀河天皇の御願寺で康和4(1102)年に落慶供養が行われました。
境内には、金堂、講堂、五大堂、阿弥陀堂など、多くの伽藍があったようです。
昭和61年の発掘調査で見つかったのは、観音堂とされています。
建物跡は、東西110尺(33メートル)、南北64尺(19.2メートル)の規模をもち、東西6間、南北2間の身舎(もや)に廂(ひさし)と縁をめぐらせ、階段を設けていたとのこと。
また、観音堂には6体の観音像が安置されていたそうです。
平成26年の発掘調査で阿弥陀堂の一部も見つかる
尊勝寺の発掘調査は昭和61年以外にも行われており、平成26年(2014年)には、阿弥陀堂の一部も見つかっています。
平成26年の発掘調査で見つかったのは阿弥陀堂の南端の23基の柱跡です。
柱跡の直径は1.5メートルから2メートルもあったということなので、この情報だけでも尊勝寺の阿弥陀堂がとても大きな建物だったことが想像できます。
この時の発掘調査では、阿弥陀堂は母屋の大きさが南北48.6メートル、東西9.32メートルの規模だとわかりました。
やはり、阿弥陀堂は大建造物だったようですね。
高さも9メートルあり、中には約5メートルの阿弥陀如来が9体安置されていたとか。
これだけの規模の寺院を建立できたのですから、堀河天皇は、当時、大きな力を持っていたんでしょうね。
しかし、これほどの大寺院もやがて衰退します。
尊勝寺が、どのようにして衰えたのか詳しいことはわかっていません。
たびたび災難に遭い、そのたびに修復されていたようですが、南北朝時代の争乱による兵火で焼失したと伝えられています。
現在の岡崎には、平安神宮や京都会館などがあります。
もしも、六勝寺がすべて残っていたら、岡崎は、東寺のような大規模なお寺が6寺も建っていることになるので、平安神宮も京都会館も、この地に建設されなかったかもしれませんね。