京都市伏見区の鳥羽に建つ城南宮は、平安時代後期に院政の舞台となった鳥羽離宮があった地です。
鳥羽離宮は、白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇、後鳥羽上皇といった歴代の上皇と深いかかわりがあります。
これらの上皇は、熊野詣が大好きで、4人の上皇を合わせると90回ほど熊野に参詣しています。
そして、これら上皇の熊野御幸の出立の地となったのが、現在、城南宮が建つ鳥羽だったのです。
往復1ヶ月の旅
白河上皇の最初の熊野詣は、寛治4年(1089年)正月のことで、それ以降、上皇はたびたび熊野に参詣の旅に出ます。
鳥羽離宮の御殿が精進屋にあてられることもあり、7日ほどの精進を勤め、祓(はらえ)の儀式を納めて出立したとのこと。
白河上皇の熊野詣は、天治2年(1125年)11月の時が有名で、鳥羽上皇、中宮の待賢門院とともに旅に出ています。
ちなみにこの時の熊野詣を三院御幸といいます。
京都から熊野本宮までは、往復約750キロあり、旅に要する期間は1ヶ月ほどだったとのこと。
鳥羽離宮近くの鳥羽の湊から舟で淀川を下り、難波津から四天王寺を経て泉州海南、田辺と陸路を進み、熊野本宮に到達する難行苦行の旅でした。
現代なら、京都から熊野までは電車やバスを使えばその日のうちに到着します。
それでも、相当な時間がかかるので、途中で嫌になる人も多いはずです。
きっと、平安時代に熊野詣をするとなると、旅にかかる期間だけでなく、その準備にもかなりの時間を要したことでしょう。
熊野に到着したら、三社に参籠して経供養を行います。
神宝(しんぽう)を奉納したり、時には白拍子の舞や歌会が催されることもあったそうです。
院政時代は、上皇が園城寺(おんじょうじ)などの高僧を先達に任じて、陰陽師(おんみょうじ)を伴い、側近の公卿や殿上人などを共にし、北面の武士たちを従えて参詣していました。
やがて、公卿、女房、武士も熊野詣を行うようになり、さらには庶民にまで熊野詣が流行し、「蟻の熊野詣」といわれるほど盛んになっていきます。
現在の城南宮の境内には、神苑の入り口付近にこの地が「熊野詣出立の地」であったことを示す立札が立っています。
城南宮のすぐ西には、国道1号線が走っており、この辺りが今も昔も移動のための重要な道路であることがわかります。
また、この付近には、京都南インターもあり、企業の物流の拠点が多くあります。
鳥羽が今も車の通りが多いのは、白河上皇が、ここから熊野詣に出発したことで、通りが整備されていったことと関係があるかもしれませんね。
なお、城南宮の詳細については以下のページを参考にしてみてください。