随筆の徒然草を書いたことで有名な吉田兼好は、鎌倉時代から南北朝時代に活躍した人物です。
吉田兼好は、京都市左京区の吉田神社の社家卜部家(うらべけ)に生まれました。
その後、後二条天皇に仕えましたが出家し、修学院や比叡山横川に草庵を結び、晩年は右京区の双ヶ丘(ならびがおか)の麓で隠棲したと伝えられています。
長泉寺の兼好法師旧跡
双ヶ丘の近くには、世界遺産に登録されている仁和寺(にんなじ)があります。
徒然草では、よく仁和寺の法師が登場するので、吉田兼好と仁和寺との間には、なんらかの関係があったものと推測できます。
仁和寺の南、双ヶ丘の東麓に長泉寺というお寺が建っています。
ここは吉田兼好ゆかりの地として知られています。
門の前には、「兼好法師舊跡」と刻まれた石碑が置かれています。
長泉寺が建つ辺りは、吉田兼好が隠棲した地と伝わっています。
境内には、吉田兼好のお墓と伝えられている兼好塚があります。
私が訪れた時には、門が閉まっていて境内に入れず兼好塚を見ることはできませんでした。
なお、兼好塚の写真は「ZauCatsの絶景かな!『京都そぞろ歩き』」さんの長泉寺と兼好塚の記事に掲載されていますので、ご覧になってください。
もともと兼好塚は、双ヶ丘の西麓にあったそうですが、1704年ころに現在地に移されたと伝わっています。
また、長泉寺の他にも、そこから北東に5分ほど歩いた辺りにある御室小学校(おむろしょうがっこう)の門の脇にも「兼好法師舊跡」と刻まれた石柱が立っています。
このように双ヶ丘の周辺に吉田兼好の旧跡を示す石碑がいくつか置かれているということは、この辺りが吉田兼好と深い縁があったことを伝えているのでしょうね。
吉田兼好は、1350年ころに亡くなったと伝えられています。
この頃は、南北朝の騒乱が激しさを増し、戦乱がいつ終わるのかわからないような状況でした。
吉田兼好は鎌倉時代の人物という印象が強いですが、その人生においては南北朝の騒乱の方が大きな影響を与えたのではないでしょうか。
徒然草は、鎌倉時代末期に書かれたと伝えられています。
この頃も、倒幕運動が盛んだったので、世の中は騒然としていたはずです。
でも、徒然草の中には、こっけいな話が多く収録されていて、なんとなく平和な時代に書かれたように思わせます。
徒然草は、戦乱の世に吉田兼好が平和な時代を思い出して書いた随筆だったのでしょうか。
詳しいことはまだよくわかっていないようなので、吉田兼好が徒然草を書いた意図がどのようなものだったのかは推測でしかありません。