四条畷の戦いで討ち死にした楠木正行の首塚がある宝筐院

正平2年(1347年)に南朝の楠木正行(くすのきまさつら)は、紀州の隅田城(すだじょう)を攻略し、その勢いで堺ノ浦で細川顕氏(ほそかわあきうじ)を破ります。

室町幕府方の山名時氏は天王寺から退却、藤井寺の戦いでも幕府軍は南朝に敗れました。

後村上天皇のもとへ

戦いに勝利した楠木正行は、12月27日に吉野の後村上天皇の前に姿を現しました。

先の戦いで足利軍を退けたものの、次の戦いは大軍を相手にすることになるので、自分の命もどうなるかわかりません。

だから、正行は、故郷にいる母に会った後、吉野の御所に参内したのです。

吉川英治の私本太平記では、この後、楠木正行は北畠親房(きたばたけちかふさ)に会いに行きます。

親房は、これまでの正行の戦いをねぎらいましたが、彼が母に会いに行き、わずかな時間とは言え戦線から離れたことを叱責しました。

「早々に駈けもどって軍の手当てをいそぎまする。いちいちのおことばは肺腑を刺し、これ以上の辱には座にも耐えられません。これにて、おいとまを」

そう言い残して、楠木正行は吉野を後にしました。

四条畷の戦い

正平3年正月3日。

楠木正行は四条畷で足利軍と戦います。

足利方は高師直(こうのもろなお)が出陣、生駒山の南には佐々木道誉(ささきどうよ)が陣を布き、総勢3万から4万の大軍を擁していました。

これに対して楠木正行は、わずか数千の兵で、まるで最初から死を覚悟していたかのように足利軍に真っ向から突撃。

後詰には、四条隆資(しじょうたかすけ)を大将とする2万の兵がいたのですが、楠木正行は、弟の正時や父の正成の代からの旧臣とともに正月5日に討ち死にしました。

楠木正行の首塚

京都市右京区の嵯峨野に宝筐院(ほうきょういん)というお寺が建っており、墓所には楠木正行の首塚があります。

門前には「小楠公菩提寺寶筐院」と刻まれた石柱が立っています。

小楠公菩提寺寶筐院

小楠公菩提寺寶筐院

父正成を大楠公(だいなんこう)と言うのに対して、正行は小楠公(しょうなんこう)と呼ばれています。

墓所に行くと、2基の石塔があります。

足利義詮と楠木正行の墓所

足利義詮と楠木正行の墓所

左側にある三層石塔は室町幕府2代将軍の足利義詮のお墓で、右側の五輪塔が楠木正行の首塚です。

敵であった足利義詮のお墓が、なぜ楠木正行の首塚の隣にあるのでしょうか。

楠木正行は、生前、宝筐院を再興した黙庵に帰依していたことから、黙庵がこの地に首級を葬りました。

そして、四条畷の戦いで楠木正行が戦死したことを黙庵から聞いた足利義詮は、彼の人柄を褒めたたえ、自分もその傍らに葬るように頼んだと伝えられています。

楠木正行の首塚

楠木正行の首塚

下の写真に写っているのは、明治24年(1891年)に京都府知事の北垣国道が建立した欽忠碑です。

欽忠碑

欽忠碑

宝筐院の拝観案内によると、北垣国道は、楠木正行の遺跡が人知れず埋もれているのを惜しみ、これを世に知らせるために首塚の由来を記した欽忠碑を建てたそうです。

欽忠碑の近くには、楠木正行の辞世が刻まれた歌碑もあります。

楠木正行の歌碑

楠木正行の歌碑

「かへらじと かねておもへば梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる」

この辞世は、四条畷の戦いの前に楠木正行が吉野の御所に参内した時に詠んだものと伝えられています。

また、2基の墓碑の前には、「精忠」と「碎徳」と刻まれた2つの灯籠があります。

この書は富岡鉄斎の揮毫(きごう)だとか。

精忠は最も優れた忠を表します。

一方の碎徳は一片の徳を表しています。

敵将を褒めたたえその傍らに自分の骨を埋めさせたのは徳のある行いだが、義詮の徳全体からみれば小片にすぎないという意味で、義詮の徳の大きさを褒めた言葉だそうです。

義詮の時代は、まだ南北朝の騒乱がおさまっていなかったことを考えると、敵将を称える彼の行いは、まさに徳のある行いと言えるでしょうね。

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