平安時代を代表する文化人に清少納言という女性がいます。
彼女が書いた枕草子は、徒然草、方丈記と並んで三代随筆のひとつに数えられていますね。
清少納言は、宮中で中宮定子(ていし)に仕えており、贅沢な暮らしをしていたという印象をお持ちの方が多いと思います。
また、清少納言は才色兼備であり、その賢さをひけらかすような面があって、嫌味な女性だったという噂もあります。
おそらく紫式部が書いた紫式部日記に「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍(はべ)りける人」という記述が残っていることが噂の出所と思われます。
実際に清少納言が贅沢をしていたのか、嫌味な女性だったのかわかりませんが、彼女の晩年はあまり派手ではなかったようです。
中宮定子の死とともに宮仕えをやめる
清少納言は、中宮定子が第2子を出産した後に亡くなったことを機に宮仕えをやめます。
定子の亡骸は、東山の鳥辺野(とりべの)に埋葬され、清少納言はその近くの東山月輪に隠棲しました。
晩年の清少納言は、出家して庵に住み、定子の冥福を祈り続けたと伝えられています。
この話を聞くと、清少納言が嫌味な女性だったとは思えません。
でも、年老いた清少納言が住むあばら家の前を通りかかった2人の男性が、「清少納言も落ちぶれたものだ」と言うと、彼女は、名馬なら骨になっても買い手があるという中国の故事にならって「駿馬の骨を買わないのか」と恐ろしい形相で言い返したと言われています。
こちらの話からは、年老いても気高くふるまう嫌味な女性といった印象を受けますね。
泉涌寺にある清少納言の歌碑
清少納言が晩年に隠棲した東山月輪には泉涌寺(せんにゅうじ)が建っています。
泉涌寺は、皇室との関係が深く、御寺(みてら)とも呼ばれる格式が高いお寺です。
境内には、仏殿と舎利伝が縦に並んでおり、その脇には寺名の由来となった泉涌水が湧き出しています。
その泉涌水の近くには、供養塔のようなものが置かれています。
これは、清少納言の歌碑です。
歌碑には、清少納言が詠んだ以下の歌が刻まれています。
夜をこめて鳥のそら音ははかるとも 世に逢坂の関はゆるさじ
この歌は、清少納言が藤原行成と交わしたものです。
彼女は、行成からの誘いを婉曲的に断るためにこの歌を詠んだそうです。
男性からの誘いを面と向かってきっぱりと断らず、歌にしてそれとなく断るというのは、彼女の知性を感じさせるものであるとともに相手を思いやる気遣いがうかがえます。
しかし、見方を変えれば嫌味な断り方だとも言えますね。
もしかしたら、清少納言のこういった気遣いが、遠回しな表現を好む京都人の特徴となって、現代まで残ったのかもしれません。
なお、泉涌寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。