京都には、幕末や明治維新の史跡が多く残っています。
有名なものから、あまり人に知られていないものまで。
一体どれくらいあるのかはわかりませんが、その数の多さは、他の時代の史跡よりも相当多いでしょうね。
京阪電車の三条駅の南にバスターミナルがあります。
そのバスターミナルの南側のビルには、勤王婆さんと呼ばれた「てい女」ゆかりの小川亭の後を示す石碑が立っています。
肥後出身の有名人が通った小川亭
小川亭は、縄手通三条下るにあったお店です。
離れ座敷からは鴨川一帯を見晴らし、その眺望がすばらしいということで、近くの肥後藩邸から藩士たちが通うようになります。
小川亭を利用した肥後藩士たちは、そこで、勤王討幕の謀議を行ったということです。
幕末に小川亭に出入りしていたのは、住江甚兵衛(すみのえじんべえ)、河上彦斎(かわかみげんさい)、轟武兵衛、宮部鼎蔵(みやべていぞう)、山田信道、高木元右衛門、藤村紫朗といった面々。
河上彦斎は、元治元年(1864年)に佐久間象山を三条木屋町で斬った「人斬り彦斎」と呼ばれた剣の達人です。
宮部鼎蔵は、吉田松陰とも親交があった大人物。しかし、池田屋事件で命を落とします。
山田信道は、後の京都府知事で、京都と深い関係があります。
他にも、生野の変の後に捕えられて六角獄舎で非業の死を遂げた福岡藩士の平野国臣や長州藩の桂小五郎も小川亭に出入りしていたそうです。
後に「てい」は、平野国臣の銅像が故郷に建立される際、肖顔の検証役となったということなので、彼女がいなければ、平野国臣の銅像の顔は、違ったものになっていた可能性がありますね。
こうやって名前を挙げていくだけでも、小川亭に通っていた勤王の志士たちの中に大物が多かったことがわかりますね。
きっと、歴史を動かすための重要な話し合いが行われていたのでしょう。
そんな重要な会議が行われていた場所には、現在、人の腰ほどの高さしかない石柱が立っているだけです。
ビルの敷地の一角に建つ「小川亭之跡」を示す石柱に気づく人は、多くなさそうです。
明治維新後、「てい」は、娘のおはるとともに旅籠を営みます。
宿には、勤王婆さんを慕って宿泊するお客さんも多かったそうですよ。
勤王婆さんが亡くなったのは、大正12年(1923年)7月10日。
90歳だったので、当時としては相当長生きです。
これだけ長生きされたのですから、晩年は、幕末・維新の頃の話を聞きに彼女に会いに来た人が多かったのではないでしょうか。
きっと当時は、歴史の生き証人として有名だったことでしょう。