元治元年(1864年)6月5日。
この日は、京都市中京区の三条木屋町にあった池田屋に新撰組が討ち入った日です。
今からちょうど150年前の出来事ですね。
このブログでは、以下の記事で池田屋事件を紹介しています。
事件から、ちょうど150年にあたる節目の年なので、再び、今回の記事でも池田屋事件のことを採り上げます。
ただ事件の内容を改めて書くと、過去記事と同じになってしまうので、今回は、池田屋事件でとばっちりを受けた不幸な人々を紹介します。
藤崎八郎
池田屋事件は、新撰組隊士が、長州系浪士たちが潜伏している池田屋に乗り込んで行って、彼らを斬ったり捕縛したりした事件です。
当然のことながら、池田屋周辺は騒然となります。
中には、やじ馬もたくさんいたことでしょう。
しかし、このような大きな事件が起こっても、それに気づかず、京都の夜の町を歩いていた人たちもいたはずです。
当日は、祇園祭の宵山でしたからね。
土佐藩士の藤崎八郎も、事件のことを何も知らずに、夜の京都を歩いていたひとりです。
彼は、用事があって池田屋の近くを通り合わせました。
すると、新撰組に加勢するために事件現場にやってきていた会津と桑名の藩士たち数人と出会います。
彼らは、藤崎八郎にいずれの藩士か尋ねたのですが、彼は、通常の浪士狩りだと思って大したことではないと思っていたら、会津藩士のひとりが突然斬りかけてきました。
藤崎は、相手の刀を素早く受け止め、すぐに逃げ出しましたが、寓居していた妙法院の前で取り押さえられ、大坂の土佐藩邸に護送された後、切腹しました。
享年22歳。
吉岡庄助
長州藩士の吉岡庄助は、事件の日、とある酒屋で酒を飲んでいました。
そこへ、会津藩士たちが、池田屋の残党狩りとして押し込んでき、争いとなります。
吉岡は酒に酔っていましたが、刀を抜いて立ち向かいました。
しかし、多勢に無勢、しかも酒に酔っているのですから、やがて斬られて絶命しました。
享年34歳。
池田屋惣兵衛の妻子
池田屋の主は惣兵衛といいます。
当時、長州系浪士たちは、テロリストとして幕府から指名手配されていました。
そのテロリストたちに自分の旅館を会合の場として利用させていたのですから、罪を問われても仕方がありません。
惣兵衛は、事件の当日、妻子を連れてすぐに現場から逃げ出しましたが、翌日6月6日に身柄を拘束され町奉行所へ引き立てられます。
彼は、1日中取り調べを受けた後、牢屋に入れられ、獄中で熱病にかかり7月13日に亡くなりました。
池田屋は、以前から長州藩が利用していた旅館だったので、浪士たちが会合に使うことをなかなか断ることはできなかったでしょう。
なので、惣兵衛も池田屋事件のとばっちりを受けたと言えば受けたのですが、それでも、浪士たちとわかっていて旅館を利用させたのですから、捕えられても仕方がありません。
ただ、惣兵衛の妻子たちは、主に逆らえなかったでしょうから、この事件の後、捕えられたのはとばっちりと言えるでしょう。
妻子たちには、情けもあり、役人に6ヶ月お預けとなりました。
しかし、池田屋は7ヶ月の営業停止となり、什器その他も没収されました。
命拾いした者
藤崎八郎や吉岡庄助は、不幸にして命を落としましたが、幸運にも命拾いした者もいました。
それは、桂小五郎、後の木戸孝允です。
幕府は、桂小五郎こそ、テロリストの中では捕えなければならない者として、特に注意を払っていました。
事件当日、池田屋に桂小五郎が現れると新撰組は睨んでいましたが、宿に乗り込んでみると、彼の姿はありません。
実は、桂小五郎は池田屋に一度は行ったのですが、会合まで時間があったので、いったん外出しました。
すると間もなく池田屋事件が起こったんですね。
もしも、桂小五郎が、会合が始まる時間ちょうどに池田屋を訪れていたら、命はなかったかもしれません。
彼が池田屋で命を落としていたら、明治維新も、また違ったものになっていたでしょうし、ホテルオークラ京都にある桂小五郎像も、建立されなかったかもしれませんね。