建武2年(1335年)1月。
建武の新政に不満を抱く武士たちが、諸国で反乱を起こし始めます。
その中には北条家の残党も含まれていました。
これらの反乱は、5月には鎮圧されましたが、なおも新政に不満を抱く者たちが多く、その中には、大納言の西園寺公宗(さいおんじきんむね)もいました。
北条時興とともに反乱を企む
鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、大覚寺統の天皇です。
西園寺公宗は、鎌倉幕府が擁立した持明院統の光厳天皇(こうごんてんのう)に仕えていたので、後醍醐天皇を中心とした政治体制になると、活躍の場が少なくなりました。
それでも、北山殿という広大な邸宅に住んでいたので、生活が困窮しているということはありませんでした。
しかし、公宗には、政治の中心に加わることができない現状を何とかしようという思いがありました。
そんな時に後醍醐天皇が皇子の護良親王(もりながしんのう)を幽閉したり、新政のために尽力していた万里小路藤房(までのこうじふじふさ)が失踪したりと、新政がぐらつく事態が発生します。
これを好機と捉えた公宗は、鎌倉幕府の執権だった北条高時の弟の時興(ときおき)とともに後醍醐天皇の暗殺計画を企てることにしました。
西園寺家は、承久の乱の時に鎌倉幕府に味方したことから、それ以来、北条家とは縁が深く、幕府滅亡後は、北条時興を屋敷内にかくまっていたのです。
公宗は、北条時興とともに後醍醐天皇を暗殺するため、6月22日に北山殿で蛍狩りを計画します。
この頃、関東では、北条高時の子の時行が兵を集めて、足利直義がいる鎌倉を攻撃する計画もありました。
京都と鎌倉の両方から建武の新政を崩壊させようという狙いです。
密告により後醍醐天皇暗殺計画は失敗
6月22日の後醍醐天皇暗殺計画は、着々と進み、北山殿は、蛍狩りの準備に大忙し。
ところが、この計画は事前に後醍醐天皇に漏れてしまいます。
竹林院の中納言公重(きんしげ)が、密告したのです。
公重の密告が事実かどうか、さっそく、後醍醐天皇側は、北山殿に探りを入れます。
すると、近頃、怪しい侍たちが出入りしているということがわかりました。そして、調べていくうちに北条高時の弟の時興が北山殿にかくまわれていることが判明。
これで、西園寺公宗が、後醍醐天皇の暗殺をたくらんでいることは間違いないとわかりました。
蛍狩りの当日がやってきました。
北山殿では、後醍醐天皇を出迎える準備が行われています。
すると、2千人の兵がいきなり、北山殿に乱入してきました。
後醍醐天皇に仕える名和長年と結城親光の軍勢です。
軍勢は、屋敷内に一気に踏み込み、西園寺公宗を捕えました。
この騒動をいち早く察知した北条時興と公宗の弟の俊季(としすえ)は、すぐに逃げ出し姿をくらましました。
捕えられた公宗は、後日、出雲への島流しという処分を受けます。
しかし、公宗は、島流しとなる前に舌を噛み切って自害。武士に斬られたとも伝わっています。
この西園寺公宗が捕えられた一連の事件は、北山手入れといわれています。
中先代の乱
北山手入れから10日ほど経って7月になると、関東で、北条時行が反乱を起こしました。
時行の軍勢は、足利直義が守る鎌倉を一気に攻め落として占領します。
北条時行が鎌倉を占領したことで、再び北条家の天下がやってきたのです。
京都では、鎌倉を取り戻すために公卿たちが対応に追われていました。
これを良い機会ととらえたのが足利尊氏です。
尊氏は源氏による幕府再興を望んでおり、朝廷から征夷大将軍に任命されれば、自ら鎌倉に向かって北条軍を制圧する気でいます。
しかし、朝廷も尊氏の意図はわかっていたので、征夷大将軍には任命せず、代わりに征東将軍という怪しい将軍に任命し、鎌倉に向かわせました。
8月になって、尊氏が鎌倉に攻め込むと、10日ばかりで北条軍は壊滅します。
結局、北条時行は、わずか20日ほどしか鎌倉にいることができませんでした。
この北条時行の反乱は、先代の北条家と後代の足利家の間に起こったことから中先代の乱と呼ばれています。
現在、西園寺公宗の北山殿があった場所には金閣寺が建っています。
金閣寺は、足利義満が造営した北山第を彼の死後に寺にしたものです。
足利義満は、北山第造営に際して、西園寺家から北山の敷地を譲り受けました。
現在の金閣寺の境内はとても広いです。
その金閣寺の境内の広さを見ると、西園寺家の北山殿も広大な敷地を有していたことが想像できます。
なお、金閣寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。