応神天皇を祀る石清水八幡宮に勝運を祈願

京都府八幡市に建つ石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の歴史は古く、平安時代前期の貞観元年(859年)に創建されました。

石清水八幡宮の創建理由は、南都大安寺の行教が、九州の宇佐八幡にひと夏参籠して、八幡神より都の近くに移坐して国家鎮護にあたらせるようにという神託を受けたこととされています。

祭神として祀られているのは、応神天皇、神功皇后(じんぐうこうごう)、比売大神(ひめおおかみ)です。

八幡宮というと、八幡神が祀られているわけですが、実は、八幡神というのは応神天皇のことなのです。

生まれる前から新羅征討に出陣

応神天皇は第15代天皇で、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)と神功皇后との間に生まれました。

初代天皇の神武天皇から第14代の仲哀天皇を神話時代の天皇、第15代の応神天皇から古代天皇とします。

つまり、応神天皇以降は、実在性が確認されているということですね。

とは言え、応神天皇にも様々な伝説があります。

その中でも、生まれる前から朝鮮半島の新羅(しらぎ)を征討するために出陣したという伝説が有名です。

応神天皇が生まれた4世紀頃に日本は朝鮮半島に出兵しました。

その出兵に際して、応神天皇の母の神功皇后が数万の兵の指揮を執ることになります。

しかし、神宮皇后は、この時すでに応神天皇を身ごもっていました。

神功皇后は、朝鮮出兵が終わるまでは子供が生まれないようにと、股間に石を挟んで出産の時期を遅らせたと伝えられています。

そして、神宮皇后は新羅を屈服させ、日本に帰ってきたときに股間の石をはずして、応神天皇を生んだということです。

応神天皇は、神功皇后の体の中にいた時に新羅に出兵したということで、胎中天皇(たいちゅうてんのう)とも呼ばれています。

八幡神の正体は応神天皇

応神天皇が亡くなって数百年が過ぎた欽明天皇32年(571年)。

大神比義(おおがみひぎ)が、九州の宇佐に赴き、3年間断食をして祈ったところ、3歳の童子が現れ、自分は誉田天皇広幡八幡麻呂(ほんだのすめらみことひろはたのやはたまろ)だと言いました。

誉田天皇とは応神天皇のことです。

つまり、その童子は自分が応神天皇で、しかも八幡神だと言ったわけです。

これが理由で、応神天皇と八幡神は同一ということになっています。

そのため、八幡神は、天皇家からの崇敬が篤く、石清水八幡宮は伊勢神宮に次ぐ天下第2の宗廟(そうびょう)と崇められました。

平安京の防衛のために創建

石清水八幡宮が、現在の京都府八幡市に建てられたのは、そこが平安京の防衛のための重要な場所だったからといわれています。

八幡市には、桂川、宇治川、木津川が合流して淀川となる三川合流地点があり、また、石清水八幡宮が建つ男山の向かいには淀川を挟んで天王山がそびえています。

都の南東に位置する男山が軍事的に重要な意味を持つ場所だということは、この地形から容易に想像でき、歴史的にも南北朝時代の戦乱、安土桃山時代の天王山の戦い、明治維新の鳥羽伏見の戦いなど、男山がたびたび軍事上の要として登場しています。

西から都に攻めてくるのを防ぐためには、どうしても男山を防衛の拠点としなければならず、そこに神社を建てて、軍神である八幡神を祀る必要があったのでしょうね。

ライトアップされた石清水八幡宮

ライトアップされた石清水八幡宮

また、軍神である八幡神を祀っているということから、石清水八幡宮は、平安時代後期になると源氏からも崇敬されるようになりました。

源義家が八幡太郎義家と呼ばれるのは、石清水八幡宮で元服したことが理由です。

安土桃山時代には、織田家や豊臣家からも崇敬され、江戸時代には徳川家からも篤く敬われました。

現在の社殿が寛永11年(1634年)に徳川家光によって造営されたことからも、その信仰の篤さがうかがえます。

このように武士からの崇敬が篤いことから、石清水八幡宮は勝運のご利益を授けてくれるといわれています。

なので、スポーツの大会の前などに石清水八幡宮に参拝しておけば、良い結果を残せるかもしれませんね。

なお、石清水八幡宮の詳細については以下のページを参考にしてみてください。