戦国大名の名が残る京都の町名

京都には、不思議な町名がいくつもあります。

どうしてこのような変わった町名にしているのかと思ってしまいますが、調べてみれば、いろいろと理由があるんですよね。

京都市上京区にも変わった町名がいくつもあります。

如水町(にょすいちょう)、甲斐守町(かいのかみちょう)などですが、これらの町名は、豊臣秀吉がこの辺りに造営した聚楽第と関係があります。

聚楽第の周辺に建てられた武家屋敷

聚楽第は、秀吉が天正14年(1586年)から造営を開始した京都の政治の拠点です。

聚楽第は、規模の大きな建物で、自分が天皇と同じくらい偉いのだということを誇示するために造営したと言われています。

天正16年に後陽成天皇を完成した聚楽第に招いて国家的儀式を行ったことでも、そういった背景があったことがうかがえます。

聚楽第があった場所は、現在でいうと、二条城の北、京都御所の西、北野天満宮の東ですね。

ちなみに北野天満宮で秀吉は大規模な茶会を催しています。

北野天満宮

北野天満宮

聚楽第は、秀吉が政治の拠点とした場所なので、その周辺には、彼に従う武将たちの屋敷がありました。

実は、この辺りの町名は、当時の武家屋敷にちなんだものだったのです。

つまり、武将の名から町名がつけられたんですね。

如水町は黒田如水

例えば、如水町は、豊臣秀吉の軍師として知られる黒田如水の屋敷があった場所です。

秀吉が自分が死んだ後、天下を取るのは黒田如水だといったほどの名将で、関ヶ原の戦いの時には、東軍と西軍が戦っている間に九州各地を自分の領土にしていったやり手です。

甲斐守町は黒田長政

甲斐守町は、黒田如水の子の黒田甲斐守長政の屋敷があった場所です。

長政は関ヶ原の戦いの時に東軍に味方し、西軍の小早川秀明に東軍に寝返るように交渉した武将です。

彼の働きもあり関ヶ原の戦いでは東軍が勝利しました。

そして、家康は長政の手を取り、東軍のためによく働いてくれたと感謝しました。

これを聞いた如水は、長政になぜもう片方の手で家康を刺してしまわなかったのだと言ったと伝わっています。

主計町は加藤清正

主計町(しゅけいちょう)は、加藤主計守清正(かとうかずえのかみきよまさ)の屋敷があった場所です。

秀吉の朝鮮出兵の時に活躍した武将で、虎退治の逸話が有名です。

関ヶ原の戦いの時には、徳川家康に丸め込まれて東軍に味方しました。

その後は、豊臣家と徳川家の仲を取り持つために働きましたが、大坂の陣の前に病死します。

毒殺されたという噂もありますね。

その他の武将にちなんだ町名

上記の他にも聚楽第の跡地周辺には、たくさんの武将にちなんだ町名が残っています。

弾正町、丹波屋町、加賀屋町、長門町、稲葉町、信濃町、福島町、常陸町、藤五郎町、飛騨殿町、直家町などがそれです。

戦国時代が好きな方は、どの町名が誰の屋敷だったのかを調べてみるのも楽しいと思いますよ。