京都市中京区の三条高倉に以仁王(もちひとおう)の邸宅がありました。
以仁王と言えば、平家打倒のために源頼政と挙兵したことで有名です。
現在、三条高倉には、以仁王の邸宅があったことを示す石碑が置かれています。
平家の捕手から逃れて三井寺へ
下の写真に写っているのが、以仁王の邸宅高倉宮(たかくらのみや)があったことを示す石碑です。
治承4年(1180年)4月。
以仁王は、平家を追討するために全国の源氏に平家討伐のために起ち上がるようにという令旨(りょうじ)を発します。
しかし、これは、すぐに平清盛の知るところとなりました。
清盛が、以仁王の令旨が本当かどうかを確かめさせたところ、紛れもない事実ということが判明。
そこで、清盛は、5月15日に以仁王を源以光(みなもとのもちみつ)と名を改めさせ、土佐に配流することを決定しました。
その夜。
清盛は、高倉宮に兵を差し向け、以仁王を捕えることにしました。
平家の捕手が、高倉宮に到着した時、以仁王はすでに邸から逃れた後でした。
昼に以仁王を捕えることを決定したのにその夜に邸から姿を消すとは、なんという逃げ足の速さ。
実は、平家の捕手の中には、以仁王と平家追討に起ちあがった源頼政の二男の兼綱がいたのです。
兼綱から平家の捕手が迫っていることを聞いた頼政は、急ぎ以仁王に知らせ、間一髪、脱出することに成功したのでした。
この時、清盛は源頼政が以仁王とともに挙兵することをまだ知りませんでした。
三井寺を脱出
三井寺に脱出した以仁王でしたが、彼の居場所はすぐに平家の知るところとなります。
そこで、以仁王は、5月25日に三井寺を去り、奈良の興福寺に向けて出発します。
しかし、平家の追手はすぐに以仁王に追いつきました。
源頼政は、以仁王を興福寺に逃れさせるために宇治橋で平家の大軍を迎え撃ち、時間稼ぎをします。
しかし、平家の大軍の前では、大した時間を稼ぐことができず、源頼政は討死。
以仁王も平家の大軍に追いつかれ、戦死しました。
以仁王は、この時亡くなりましたが、彼が諸国の源氏に発した平家追討の令旨によって、源頼朝や木曽義仲が挙兵したことで、平家は都を追われ、壇ノ浦の戦いで滅亡することになります。
高倉宮は、平家滅亡の発端となった場所と言えます。
もしも平家の捕手がもう少し早く高倉宮に到着し、以仁王を捕えていれば、歴史は違っていたかもしれませんね。
高倉宮跡の石碑を見ていると、ふとそのように思いました。