京都市上京区の同志社大学の近くを歩いていると、人の背よりも高い石碑を発見しました。
その石碑の前の説明書には、藤井右門(ふじいうもん)宅跡と書かれていました。
藤井右門は、忠臣蔵でおなじみの赤穂藩の家臣であった藤井又左衛門の子で、赤穂藩取り潰しの後、又左衛門が移り住んだ越中国射水で享保5年(1720年)に生まれました。
宝暦事件と明和事件
大きくなった右門は、京都に出て、竹内式部と出会います。
竹内式部は、天皇が幕府に軽視されている現状を憂い、若い公家たちに天皇を尊重すべきだという尊王思想を説いていました。
この思想に右門も共感し、皇学所教授となって、公家たちに尊王論を教えることになります。
しかし、竹内式部の尊王思想は、幕府にすると危険な思想だったため、捕えられて京都から追放されました。
竹内式部と親交のあった右門は、身の危険を感じ京都を離れ、甲斐国へと逃れました。
この事件は、宝暦8年(1758年)に起こったことから宝暦事件と呼ばれています。
その後、江戸に出た藤井右門は、山県大弐(やまがただいに)の家で同居することになります。
山県大弐は、医者でしたが、儒教や兵学にも詳しい人物で、江戸で私塾を開いていました。
その私塾では、塾生に尊王論を説いたり、兵学の講義では幕府の重要拠点を例にして軍略を教えたりしていました。
これが幕府の知るところとなり、明和3年(1766年)に山県大弐は捕えられます。また、藤井右門も同罪として幕府に捕えられました。
そして、2人は処刑されました。
これを明和事件といいます。
ちなみに先の宝暦事件で京都を追放された竹内式部も明和事件の関与が疑われ、流罪となり、配流先に送られる途中で病死しています。
碑文の修正痕
下の写真に写っているのが、藤井右門宅跡の石碑です。
この石碑が建立されたのは、大正12年(1923年)のことです。
藤井右門が亡くなって150年以上も経っていますね。
藤井右門の尊王思想は、彼が亡くなって100年ほど経過した幕末に勤王の志士たちの思想の基礎となり、やがて倒幕、明治維新の実現にいたったことから、後年大いに評価されるようになりました。
大正時代にこの石碑が建立されたのは、藤井右門の功績が評価されるまでに長い年月を要したことを意味しているのでしょう。
石碑には、漢字ばかりが書かれているので、何が書いているのかはよくわかりませんが、碑文をよく見ると7文字だけ修正された痕が残っています。
修正された部分には、「于読書明理也方」と刻まれています。
この修正箇所を含めた前後の文については、以前に紹介した伊東宗裕氏の著書「京都石碑探偵」の中に訳文が掲載されていますので、以下に引用します。
主張すべきことがあってもだれも主張せず、なすべきことがあってもだれもやらない。こういう時にいきどおって義を唱え、身の危険をもかえりみず後悔しないなどどいうことは、特別な人でなければできない。そういう人は書物を読んで事の道理を明らかにすることによって形成される。(90ページ)
当時の権力者を批判することは、死へとつながることになります。その危険をかえりみずに正義を貫くということはなかなかできるものではありません。
石碑の近くにある説明書によると、藤井右門宅は、近くに薩摩藩邸があったことから、幕末には志士たちの会議場所としても利用されていたとのこと。
屋敷は、大正11年に区画整理のために取り壊され、藤井右門の顕彰のためにこの石碑が建立されたそうです。