平安時代中期。
この時代は、藤原道長とその子の頼通が権勢を振っていました。
藤原頼通と言えば、宇治市にある平等院を建てたことで知られていますが、そのモデルと言われているのが、道長が建てた法成寺(ほうじょうじ)でした。
平等院は世界遺産に登録されているほど立派なお寺なので、法成寺も負けず劣らず豪華なお寺なのでしょう。
境内には、金堂、釈迦堂、薬師堂、五重塔など壮麗な建物がいっぱい。
これだけの建物があるお寺は、一度は見ておきたいところです。
それらしいお寺は見当たらず
法成寺の所在地は、京都市上京区の京都御苑の東。
この辺りは、寺町通沿いにたくさんのお寺が建っていますが、法成寺らしきお寺は見当たりません。
しばらく付近を散策していると、荒神口通に「従是東北 法成寺址」と刻まれた石碑を発見しました。
そう、法成寺はすでに廃絶してしまっていたのです。
藤原道長は、現在の京都御苑内の東の一部にあった土御門第(つちみかどだい)という大邸宅に住んでいました。
土御門第は、長和5年(1016年)に火災で焼失しますが、その2年後に再建されています。
この時、土御門第で使用する調度品を運ぶ行列を見物する人が、とても多かったと伝えられています。
その後、寛仁3年(1019年)に道長は九体阿弥陀堂の建立を発願します。
建立場所は、東京極通(現在の寺町通付近)を挟んだ土御門第の東側です。
九体阿弥陀堂は寛仁4年に完成し、無量寿院と呼ばれるようになります。
この無量寿院を囲むように堂塔伽藍が整備され、法成寺が完成しました。
藤原道長の栄華の跡は1本の木だけ
藤原道長は、土御門第という大邸宅と法成寺という大寺を持っていましたが、現在では法成寺と同じく土御門第も残っていません。
法成寺は、完成して約30年後に火災で焼失しましたが、頼通によって再建されました。
その後も、何度も兵火や火災に遭い、鎌倉時代になるとすっかり寂れてしまっていたそうです。
同時代に書かれた吉田兼好の徒然草第25段にその衰退ぶりが、以下のように書かれています。
京極殿・法成寺など見るこそ、志留まり、事変じにけるさまはあはれなれ。
そして、法成寺は鎌倉時代末期に廃絶しました。
一方、土御門第も現在では、京都御苑内のその跡地に大きな木が一本植えられているだけとなっています。
平安時代に一時代を築いた藤原道長の史跡にしては、あまりにも寂しいですね。
ちなみに藤原道長は、源氏物語の主人公である光源氏のモデルと伝えられています。光源氏のモデルは源融(みなもとのとおる)とされていますが、藤原道長もそうだったのではないかといわれていますね。
紫式部が源氏物語を書いた場所とされているのが、京都御苑の東に建つ廬山寺です。
境内には源氏庭があり、夏になるとキキョウが咲くことで知られています。