京都市左京区の一乗寺に金福寺(こんぷくじ)と圓光寺というお寺が建っています。
この2つのお寺は、幕末、井伊直弼の愛人であった村山たかと深い関係があります。
村山たかをご存じない方が多いと思いますが、大河ドラマの第1作目の「花の生涯」のヒロインとして描かれた女性です。
幕末の女スパイ
ペリー来航(1853年)以降、国内は大混乱となっていました。
この大混乱を鎮めるために幕府の大老となったのが、彦根藩主の井伊直弼でした。
直弼は、自分のやり方に反対する者たちを排除していき、幕府政治の立て直しをはかります。
そして、天皇を敬い外国人を日本から追い出そうという尊王攘夷の思想を持った過激派を捕えて次々に処刑していきました。
これが安政の大獄で、吉田松陰や梅田雲浜(うめだうんぴん)などが処刑されています。
この時、直弼の懐刀となって活躍したのが長野主膳でした。
主膳は、尊王攘夷派を処罰するために彼らの動向を探らせるスパイを使います。
それが村山たかとその息子の多田帯刀(ただたてわき)です。
たかは、直弼の愛人でしたが、その後は長野主膳の妾となり、彼の仕事を手助けするため京都で尊王攘夷派の情報を江戸に送りました。
桜田門外の変で運命が変わる
反対派を弾圧してきた井伊直弼は、万延元年(1860年)に水戸浪士の襲撃に遭い、亡くなります。
これが桜田門外の変です。
また、桜田門外の変の後、長野主膳は彦根藩の政治にかかわりますが、藩主との関係が悪化し、文久2年(1862年)に処刑されました。
そして、村山たかは、京都の壬生でひっそりと生活することになります。
しかし、たかとその子の多田帯刀は、井伊直弼によって弾圧されていた尊王攘夷派の恨みを買い、自宅を襲撃されました。
襲撃したのは、土佐藩と長州藩の志士たち20名ほどです。
この中には、「人斬り以蔵」と呼ばれた土佐藩の岡田以蔵もいたと伝えられています。
志士たちは、たかに多田帯刀の居場所を問いただしますが、彼女は一向に答えようとしません。
そこで、志士たちは、たかの家の大家に多田帯刀を見つけ出さないと、お前も殺すと脅しました。
その後、たかは、志士たちに三条河原に連れて行かれ、裸のまま3日間生きさらしにされました。
また、多田帯刀も大家に連れ出され、志士たちに引き渡されます。
そして、三条河原から2kmほど東の蹴上まで連れて行かれ、斬首されました。
金福寺で尼となる
生きさらしにされた後、村山たかは、金福寺で出家し妙寿と名を改めます。
彼女は、明治9年(1876年)に67歳で亡くなりました。
金福寺の境内には、慶応3年(1867年)に村山たかが建立した弁天堂があります。
村山たかが亡くなった後、その亡骸は、金福寺の北に建つ圓光寺に葬られます。
彼女の墓は、今も圓光寺の墓地に残っています。
なお、金福寺と圓光寺の詳細つについては以下のページを参考にしてみてください。