京都市中京区に光勝寺極楽院というお寺が建っています。
光勝寺は、天慶2年(939年)に空也によって創建されたと伝えられています。空也が、比叡山で光勝という僧名を受けたことが、寺名の由来です。
また、光勝寺は、空也を本尊として祀っていることから空也堂とも呼ばれています。
空也を祀っているということは、大きなお寺なのだろうと思い、実際に訪れてきました。
門は閉ざされたまま
空也堂に到着してみると、門は閉ざされていました。
壁を見る限りでは、大きなお寺のようです。
しかし、壁越しに中を見ても、あまり建物は建っていないようです。
PHP新書の「京都の寺社505を歩く」によると、どうやら、戦前の強制疎開で本堂が壊され、そのまま再建されていないとのこと。
空也堂前の説明書に毎年11月の第2日曜日に空也を偲ぶ開山忌という法要が行われていることが書いてあったので、廃寺にはなってはいないようです。
市聖と呼ばれた空也
ここで簡単に空也について紹介しておきます。
空也は、平安時代中期の僧で、尾張の国分寺で出家しました。
彼は、諸国を遊行しているときに橋を架けたり、井戸を掘ったり、道を造ったりと社会事業をよく行いました。
また、京の東市や西市で念仏を行ったことから市聖(いちのひじり)と呼ばれました。
ちなみに京都市東山区の六波羅蜜寺には、口から6体の小さな仏を吐き出している空也の像が保管されていますが、この6体の仏は、「南無阿弥陀仏」の6文字を表しています。
空也の像については、原産業株式会社さんのホームページに写真が掲載されていますので、ご覧になってください。おそらく見たことがあるという方は多いと思いますよ。
市の聖‐空也2013年7月27日追記:左記ページは閉鎖しています。
都の疫病を鎮める
天暦5年(951年)に京の都で疫病が大流行しました。
この時、村上天皇は空也に悪病退散を命じます。
空也は、十一面観世音菩薩を荷車に安置して市中を巡り踊り念仏を行います。
また、病人には、梅干しと昆布を混ぜた皇服茶(おうぶくちゃ)と呼ばれるお茶を飲ませました。
そして、空也のこれらの活動によって疫病の流行が治まったと伝えられています。
空也堂で毎年行われる開山忌では、皇服茶の献茶と踊り念仏が奉納されるそうですよ。
空也堂は、門が閉ざされ、本堂も無くなっていますが、平安時代の空也の活動を伝えていくために開山忌などを通して、ずっと存続してほしいお寺です。
訪れる方が増えれば、いずれ本堂も再建されるかもしれませんね。
なお、空也堂の詳細については以下のページを参考にしてみてください。