京都市東山区の円山公園近くに建つ長楽寺には、幕末、天皇を敬い外国人を日本から追い出そうという尊王攘夷(そんのうじょうい)運動が盛んだった水戸藩の関係者のお墓が多数あります。
この時期の水戸藩の活動は、明治維新に大きく貢献することになります。
ただ、当時活躍した水戸烈士たちは、幕末に命を落とした者が多く、あまり有名ではありません。
今回の記事では、長楽寺にひっそりと眠る水戸烈士たちのお墓を紹介します。
幕末の尊王攘夷運動に影響を与えた頼山陽
円山公園の奥の細長い参道を歩いて行くと、長楽寺の入り口に到着します。
水戸烈士たちのお墓は、境内の山の中腹の尊攘苑にあります。
幕末、尊王攘夷運動が盛んになったのは、文政9年(1822年)に頼山陽(らいさんよう)が著した日本外史の影響といわれています。
日本外史は歴史書だったのですが、そこには、南北朝時代に後醍醐天皇に仕えた楠木正成を称賛し、反対に天皇と対立した足利尊氏を批判する記述があり、その思想が、幕末の尊王攘夷運動につながっていったのです。
頼山陽は、天保3年(1832年)に53歳で亡くなり、彼の遺言によって、長楽寺に葬られました。
また、山陽の子の三樹三郎の墓もあります。
三樹三郎は、幕府批判と尊王攘夷運動が原因で、安政の大獄で捕えられ、安政6年(1859年)に処刑されました。
尊攘碑と鵜飼父子の墓
安政の大獄は、水戸藩にも大きな影響を与えました。
13代将軍家定の継嗣問題に首を突っ込んだ水戸烈公こと徳川斉昭とその子の一橋慶喜は政界から追い出されます。
また、孝明天皇から水戸藩主徳川慶篤に戊午(ぼご)の密勅と呼ばれる攘夷実行の勅諚(ちょくじょう)が下された際、それに関与した京都留守居役の鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん)、幸吉の父子も幕府に捕えられ、安政6年に処刑されました。
鵜飼父子の墓も長楽寺にあります。
鵜飼親子の罪はその数年後に許され、明治時代になってから従四位の官位が贈られました。
その時、鵜飼家の後継者が尊攘碑を境内に建立しました。
ちなみに「尊攘」の2字は、徳川斉昭の真蹟だそうです。
水戸藩兵留名の碑
文久3年(1863年)、水戸藩主徳川慶篤が、京都御所の守衛のために藩兵300人を率いて上洛します。
この時、下京区の本圀寺に駐屯したことから、彼らは本圀寺党と呼ばれました。
ちなみに本圀寺の「圀」は水戸黄門で知られる水戸光圀から一字をもらったものです。現在は、山科区に移転しています。
この年から明治維新まで、京都では87名の水戸藩士が殉死しました。
その87名の名が刻まれた水戸藩兵留名之碑が境内に置かれています。
慶篤に従って上洛した者たちの中には、彼の弟の昭訓(あきくに)もいました。
昭訓は、兄とともに京都御所の守衛に勤めましたが、その年の11月に16歳の若さで病のため亡くなっています。
昭訓の墓も長楽寺にあります。
また、本圀寺党の首領として活躍し、明治4年(1871年)に亡くなった大場一真斉の墓もあります。
他にも長楽寺の墓地には、徳川慶喜に仕え、慶応3年(1867年)の神戸開港に関わり、幕臣に暗殺された原市之進の墓もあります。
明治維新というと薩摩藩や長州藩の活躍が有名ですが、その陰で、志半ばで倒れた水戸烈士たちがいたことを長楽寺の尊攘苑は今に伝えています。
なお、長楽寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。