京都市上京区にある京都御苑は、幕末の史跡が多いことで知られています。
京都御苑だけでなく、京都市内には、たくさんの幕末の史跡が存在しているのですが、時代を動かした大きな事件が起こったところと言えば、京都御苑が一番ではないでしょうか。
猿ヶ辻の変、八月十八日の政変、蛤御門の変、小御所会議。
これらは、全て京都御苑で起こった幕末の重大事件でした。
猿ヶ辻
京都御苑内にある京都御所の北東角の辻を猿ヶ辻と言います。
塀に金網で囲まれた猿がいることが、猿ヶ辻の由来です。
文久3年(1863年)5月20日。
猿ヶ辻の辺りで、公家の姉小路公知(あねのこうじきんとも)が薩摩藩の田中新兵衛によって暗殺されました。
当時は、天皇を敬い、外国人を日本から追い出そうと言う尊王攘夷(そんのうじょうい)の考え方が流行しており、姉小路公知もその思想を持っていました。
しかし、ある日、勝海舟に軍艦を見せられた姉小路は、日本が西洋に格段に遅れていることを思い知らされ、攘夷が正しいことなのかどうか迷いが生じてきます。
これを知った田中新兵衛が、御所での仕事を終えて帰る途中の姉小路を猿ヶ辻で暗殺したのです。
この事件を猿ヶ辻の変と言い、事件後一時的に薩摩藩の京都での発言力は低下しました。
堺町御門
京都御苑の南側に堺町御門という門が建っています。
この門も幕末の史跡として知られています。
文久3年8月18日。
京都御所でクーデターが起こりました。
それまで、堺町御門の警備にあたっていた長州藩が、京都から追い出されてしまったのです。
尊王攘夷を掲げる長州藩は、京都政界で幅を利かせていましたが、偽の勅命(天皇の命令)を乱発するなどしていたため、孝明天皇からは嫌われていました。
そして、天皇の怒りが遂に頂点に達し、8月18日に会津藩と薩摩藩によって長州藩は、御所から締め出され、三条実美(さんじょうさねとみ)ら7人の公卿とともに長州へと退散しました。
なお、薩摩藩は、この時の活躍で再び京都での発言力を取り戻しています。
蛤御門
京都御苑の西側にある新在家御門は、元治元年(1864年)7月の禁門の変の舞台となりました。
新在家御門は、通称蛤御門(はまぐりごもん)と呼ばれるため、この時の事件を蛤御門の変と言ったりもします。
1年前に京都政界から締め出された長州藩は、京都での発言力を取り戻すべく、京都御所に乱入してきました。
しかし、またもや会津藩と薩摩藩の活躍で、長州藩は敗れてしまいました。
小御所
京都御所の中にある小御所と呼ばれる建物は、慶応3年(1867年)12月9日に徳川慶喜の辞官納地を決定した会議が行われたところです。
この会議を小御所会議と言います。
同日、王政復古の大号令が行われ、武士を中心とした政治から天皇を中心とした政治へと代えることが宣言されました。
小御所会議で、薩摩藩の大久保一蔵(利通)と公卿の岩倉具視(いわくらともみ)が、徳川慶喜の官位の辞職と領地の返上を迫ります。
これに対して、土佐藩の山内容堂が徳川慶喜を擁護しましたが、ある失言によって会議での発言力を失い、徳川慶喜の辞官納地が決定しました。
この後、新政府と幕府の間で、鳥羽伏見の戦いが勃発します。
以上が、京都御苑内の主な幕末の史跡です。
小御所は、京都御所内にあるので、春と秋の一般公開の時に拝観するのが良いでしょう。
それ以外の史跡については、いつでも観ることができます。
なお、京都御所の詳細については、以下のページを参考にしてみてください。