曲直瀬道三の墓所がある十念寺
京都市上京区の寺町通沿いに個性的なお堂を持つ十念寺というお寺があります。 境内に入って良いものかわからないことから、近くを通っても、外からお堂を眺めることしかしたことがありません。 その十念寺の墓地には、室町時代から安土桃山時代にかけて活躍した医師の曲直瀬道三(まなせどうさん)のお墓があります。
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京都市上京区の寺町通沿いに個性的なお堂を持つ十念寺というお寺があります。 境内に入って良いものかわからないことから、近くを通っても、外からお堂を眺めることしかしたことがありません。 その十念寺の墓地には、室町時代から安土桃山時代にかけて活躍した医師の曲直瀬道三(まなせどうさん)のお墓があります。
京都市東山区に建つ豊国神社(とよくにじんじゃ)は、豊臣秀吉を祀っています。 慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなると、遺体は、彼の遺命により阿弥陀ヶ峰の中腹に埋葬されました。 そのふもとの豊国廟太閤坦(ほうこくびょうたいこうだいら)には、80余りの廟社が造営され、後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神(とよくにだいみょうじん)の神号を賜っています。 これが豊国神社の創建ですが、その後、荒廃し、明治になって再建されています。
阪急電車の大宮駅から南東に約3分歩いたところに空き地のような場所があります。 両脇を別の建物に挟まれ、正面には瓦葺の塀があり、中には入れないようになっています。 この空き地のような場所は、かつて、フランシスカンチャペルがあったところです。
京都市上京区の本満寺は、境内に立派な枝垂れ桜が植えられていることで知られ、春になると多くの旅行者や観光客がお花見に訪れます。 当寺の墓地には、尼子氏の忠臣として知られる戦国武将の山中鹿之助のお墓があります。
京都市中京区の京都市役所がある辺りは、上本能寺前町という地名になっています。 その名からもわかるようにここは本能寺があった場所です。 本能寺と言えば、織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変が有名ですが、事件現場は、上本能寺前町から南西の四条西洞院の辺りです。 その後、再建が進み、天正17年(1589年)に豊臣秀吉の命により寺町御池に移転しています。
京都市北区にある大徳寺は、広々とした境内を持つ臨済宗のお寺です。 境内には、一般公開されているものから通常非公開のものまで、たくさんの塔頭(たっちゅう)寺院が建っています。 大徳寺に塔頭が多く建っているのは、ここで織田信長の葬儀が行われたことと関係があります。
慶長5年(1600年)9月15日。 戦国武将が東軍と西軍に分かれて戦った関ケ原の戦いが起こりました。 勝利したのは、徳川家康率いる東軍です。 東軍を勝利に導いたのは、小早川秀秋でした。 小早川秀秋は、西軍に属していながら東軍に寝返り、陣取った松尾山から一気に駆け下って同じ西軍の大谷吉継を急襲します。 これにより、西軍は壊滅的な打撃を受け、わずか半日で天下分け目の大戦は終わりました。
京都市上京区の京都御苑の北に相国寺があります。 相国寺の境内には、いくつも塔頭(たっちゅう)が建っており、その中に豊光寺というお寺があります。 豊光寺は、豊臣秀吉の追善のため、相国寺第九十二世住持の西笑承兌(せいしょうじょうたい)が、慶長3年(1598年)に創建したものです。 西笑承兌は、豊臣秀吉や徳川家康と面識があり、両者の前で肝を冷やしたことがあります。
慶長5年(1600年)6月。 徳川家康は、会津の上杉景勝を討伐するために伏見城を発ちました。 これまで徳川家康は、上杉景勝に上洛を求めていましたが、上杉景勝は全く上洛しようとしません。 そこで、徳川家康は、上杉景勝が豊臣政権に対して謀反を企てているとし上杉討伐に動き出したのでした。
永禄11年(1568年)9月に上洛し、当時の政治に深く関わった織田信長。 今でも、京都には、織田信長に関係する史跡が残っています。 そこで、今回は、京都にある織田信長に関係する史跡をいくつか紹介します。