道路の端にひっそりとある菅原道真の邸宅跡・紅梅殿

京都市下京区の地下鉄四条駅から西に10分ほど歩くと、菅大臣神社(かんだいじんじんじゃ)という神社が建っています。 この菅大臣神社は、平安時代に菅原道真の邸宅であった白梅殿の跡地に建てられたものです。 社名や立地からもわかるように祭神として祀られているのは、学問の神様の菅原道真です。 菅原道真の邸宅は、白梅殿の他に紅梅殿もありました。

京都の庶民のはかない思いが地名となった化野

京都には、難読地名がたくさんあります。 蛸薬師(たこやくし)を一見して読める方は、なかなかの京都通と言えるのではないでしょうか。 でも、京都通の方でも、化野をすぐに読める方となると、その数は、かなり減りそうです。 「ばけの」や「かの」、「けの」と読んでしまいそうですが、化野と書いて「あだしの」と読むのが正解です。 化野は、京都市右京区の嵯峨野の北にある地名です。 いったい、なぜ、このような変わった名がついたのでしょうか。

処刑場だった三条河原。カップルが仲良く座るその場所も実は・・・。

京都市東山区と中京区に挟まれるように鴨川が北から南に流れています。 当然のことながら、川を渡ろうと思うと橋が必要になります。 東山区から中京区に行こうとする場合、三条大橋か、その1本北に架かる御池大橋のどちらかを選びますが、歩行者に人気があるのは三条大橋ですね。 近くにたくさんのお店が並んでいることが理由でしょう。 でも、三条大橋が架かる三条河原は、少しばかり気味の悪いところなので、できることなら近づきたくないですね。

石田三成の片腕として働いた島左近の墓がある立本寺

関ヶ原の戦いで、西軍を率いて徳川家康と戦った石田三成。 石田三成は、所領が少なかったため、毛利輝元を大将にして諸将を味方につけ天下分け目の戦いに挑みます。 もともと石田三成は、軍事よりも政治面で能力を発揮した、いわゆる秀才でした。 そんな石田三成が、当時、日本一の戦上手とされていた徳川家康と戦おうとしたのには、きっと、家康に勝てるという自信があったからでしょう。 その自信となっていたもののひとつが、おそらく、彼の家老の島左近の存在だったはずです。

近世の京都の物流を支えた高瀬川

2014年は、大坂冬の陣から400年目にあたります。 大坂冬の陣は、翌年に起こった夏の陣で豊臣家が亡びていることから、歴史的にみて重大事件と言えますね。 大坂冬の陣はとても有名な事件ですが、京都では、同じ年の慶長19年(1614年)に物流に革命が起こりました。 それは、高瀬川が完成したことです。

光源氏の幽霊が出る木屋町五条

紫式部の作品の源氏物語の主人公は、光源氏ですよね。 光源氏は、物語の中で美男子として描かれているのですが、その美男子の幽霊だったら一目見たいという方もいるのではないでしょうか。 実は、光源氏の幽霊が出ると言われている場所が京都にあります。 それは、木屋町五条です。

清水寺の音羽の滝で造られたビールがあった

京都には名水が湧き出る場所がたくさんあります。 そういった場所は地名でわかるようになっていることが多く、堀川、今出川、御池など、水を連想させる言葉が入っているところでは、名水が湧き出ていることが多いですね。 中でも、名水と言えば、伏見が有名で、昔は伏水と表記していたようにきれいな地下水が豊富です。 そのため、伏見には多くの酒蔵が建ち、今も活気がありますね。 京都の醸造と言えば、伏見をすぐに連想するわけですが、実は、明治10年(1877年)に清水寺にある音羽の滝の水を利用してビールが造られたことがありました。

1発の銃弾も撃たずにすべてを失った長宗我部盛親の墓がある蓮光寺

京都市下京区に蓮光寺(れんこうじ)というお寺があります。 蓮光寺は、平清盛ゆかりの駒止地蔵が安置されていることで知られていますが、他にも歴史上の人物と縁があります。 その歴史上の人物とは、土佐の戦国大名であった長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)です。

政治の遅れは1年で取り戻せても文化の復興には150年かかる

2014年の祇園祭は、49年ぶりに後祭が復活したこと、その後祭の山鉾巡行で150年ぶりに大船鉾(おおふねほこ)が巡行したことが話題となりました。 ところで、なぜ、大船鉾が150年もの間、山鉾巡行に参加しなかったのでしょうか。 それは、150年前に京都で起こった大きな戦争が原因なんですね。

尺八都山流の流祖・中尾都山の頌徳碑がある石清水八幡宮

京都府八幡市の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、男山の山上に鎮座しています。 その山上には駐車場があり、近くには大きなクスノキが植えられています。 大楠を植えたのは楠木正成と伝えられており、クスノキの下には、人の背ほどの石碑が立っています。 きっと楠木正成の名言が刻まれているのだろうと思っていたのですが、どうやらそうではないようです。 石碑に刻まれているのは、尺八の都山流(とざんりゅう)と関係のある言葉でした。