大正時代から残る川崎家住宅

京都市中京区は、京都市の中心部ということもあってお店やマンションなどが建ち並んでいます。 商業用のビルも非常に多いです。 なので、中京区を歩いていても、あまり京都らしい景色に出会えないですね。 でも、大きな通りではなく路地に入れば、昔ながらの建物がまだ残っており、京町家なんかも見ることができます。 新町通六角上るにある川崎家住宅も、そんな建物のひとつです。

伏見稲荷大社の狐がくわえている物は4種類

京都市伏見区に建つ伏見稲荷大社の境内には、キツネがたくさんいます。 キツネと言っても、生きているキツネではなく狛狐なのですが、とにかく境内のいたるところにいます。 狛狐は正式には眷属(けんぞく)や白狐(びゃっこ)と言うそうです。 伏見稲荷大社のキツネを見たことがある人は気づいていると思いますが、口に何かをくわえていますよね。 それも同じものではなく、様々なものをくわえています。 狛狐がくわえているものは、稲穂、巻物、鍵、玉の4種類です。

祇園の地名の由来

祇園という地名を聞いて何を思い浮かべるでしょうか。 京都の花街であるとか、舞妓さんがいるとか、お金持ちが遊びに行くところとか、そういった遊興の場所といった印象がありますよね。 京都観光で東山に訪れた時も、休憩は祇園のお店を選ぶことが多いのではないでしょうか。 ところで、祇園という地名はなぜ付いたかご存知ですか。 実は、祇園の名は、現代人が抱いている印象とは全く違った意味で付けられたんですよね。

学問の世界で成功したいなら舎人親王を祀る藤森神社への参拝がおすすめ

京都市伏見区に建つ藤森神社(ふじのもりじんじゃ)は、勝運のご利益を授けてくれる神社として知られています。 特に競馬の神さまとして崇敬されていることから、競馬関係者のみならず競馬ファンの間でも有名です。 境内を見ていても、競馬の絵馬が掲げられていたり、ジョッキーのサインがあったりと、競馬色を強く感じますね。 でも、藤森神社は、競馬の神さまだけでなく、学問の神さまも祀っています。 なので、勝運だけでなく学業成就の祈願のために参拝するのもおすすめなんですよね。

藤原氏全盛期に紫式部が源氏物語を書けたのはなぜか?

源氏物語は、平安時代に紫式部が書いた小説です。 この小説は、世界で最初に書かれた長編小説として文学界では大変重要な意味を持っています。 源氏物語の主人公は光源氏で、彼の女性遍歴や出世していく様子が物語の中で描かれています。 ところで、紫式部は、なぜ小説の題名を源氏物語としたのでしょうか。 おそらく、主人公が光源氏だから、そのような題名にしたのだと思いますが、私が述べたいのはそういうことではなく、源氏をなぜ主人公にしたのかということです。

帰ってきて欲しくない人には戻橋を通らさない

京都市上京区の堀川に一条戻橋という橋が架かっています。 この橋には、様々な伝説があります。 有名なところでは、平安時代に文章博士であった三好清行(みよしきよつら)の葬儀の行列が、戻橋を渡っているときにその子の浄蔵が紀州熊野から帰ってきて棺に泣きすがっていると、清行が一時的に蘇生して父子の対面が実現したというものがあります。 戻橋という名は、この言い伝えが由来になって付けられたものだと言われていますね。

清少納言が隠棲した東山月輪にある歌碑・泉涌寺

平安時代を代表する文化人に清少納言という女性がいます。 彼女が書いた枕草子は、徒然草、方丈記と並んで三代随筆のひとつに数えられていますね。 清少納言は、宮中で中宮定子(ていし)に仕えており、贅沢な暮らしをしていたという印象をお持ちの方が多いと思います。 また、清少納言は才色兼備であり、その賢さをひけらかすような面があって、嫌味な女性だったという噂もあります。 おそらく紫式部が書いた紫式部日記に「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍(はべ)りける人」という記述が残っていることが噂の出所と思われます。 実際に清少納言が贅沢をしていたのか、嫌味な女性だったのかわかりません...

天皇陵を訪れる・桃山編

京都には多くの天皇陵があります。 天皇陵と聞くと、広大な土地に埋葬されているといった印象があります。 でも、ほとんどの天皇陵が街中の一角にひっそりと残っているだけなんですよね。 それでも宮内庁が管理しているので、荒廃することはありません。ただ、王家の墓にしてはちょっと寂しいなと思えるものばかり。 しかし、京都市伏見区の桃山にある2つの天皇陵は、他の京都の天皇陵とは違い、とても大きい陵墓です。 ひとつは桓武天皇のもので、もうひとつは明治天皇のもの。 どちらも立派な天皇陵なので、一度は訪れておきたいところです。

京都市内最古の五重塔は醍醐寺にある

京都市内には五重塔が4つあります。 その中で最も有名なのは東寺の五重塔でしょうね。また、京都の風情を感じることができるのが東山にある八坂の塔ではないでしょうか。 そして、京都市内で最も古い五重塔があるのが伏見区の醍醐寺です。 他の3つの五重塔は室町時代や江戸時代に再建されたものなのですが、醍醐寺の五重塔は、なんと平安時代からずっと存続しているのです。

京都の米騒動で大騒ぎとなった長徳寺

一揆。 この言葉から連想するのは、江戸時代や戦国時代に貧しい農民が徒党を組んで、時の権力者に反抗することではないでしょうか。 時代劇でも、その場面が出てくることがあるので、江戸時代以前の出来事のように思っている人が多いはず。 でも、一揆は近代になってからも起こっています。 その代表例は、大正7年(1918年)8月に起こった米騒動で、京都でも大きな騒ぎとなりました。