
葵の御紋が入った灯籠がある毘沙門堂
京都市山科区に毘沙門堂門跡(びしゃもんどうもんぜき)というお寺が建っています。 毘沙門堂門跡は、三千院、青蓮院、妙法院、曼殊院とともに天台宗の五箇室門跡の一つに数えられています。 門跡寺院は、皇族関係者が代々住職を務めてきたお寺で、そのため、皇室と縁が深いです。 毘沙門堂も、江戸時代に後西天皇の皇子公弁法親王(こうべんほっしんのう)が入寺して以来、門跡寺院となっています。 その毘沙門堂の境内には、徳川家の家紋である葵の御紋が入った灯籠が立っています。
観光名所、史跡、四季折々の風景を写真とともに紹介するブログ。※アフィリエイト広告を利用しています。
京都市山科区に毘沙門堂門跡(びしゃもんどうもんぜき)というお寺が建っています。 毘沙門堂門跡は、三千院、青蓮院、妙法院、曼殊院とともに天台宗の五箇室門跡の一つに数えられています。 門跡寺院は、皇族関係者が代々住職を務めてきたお寺で、そのため、皇室と縁が深いです。 毘沙門堂も、江戸時代に後西天皇の皇子公弁法親王(こうべんほっしんのう)が入寺して以来、門跡寺院となっています。 その毘沙門堂の境内には、徳川家の家紋である葵の御紋が入った灯籠が立っています。
現在の歌舞伎のもととなったのは、出雲(いずも)の阿国(おくに)が始めた歌舞伎踊りとされています。 慶長8年(1603年)3月25日に阿国は、京都市上京区の北野天満宮の境内で初めて歌舞伎踊りをし、京都の人々に強烈な印象を与えました。 ところで、阿国は、なぜ北野天満宮を選んで歌舞伎踊りの興行を行ったのでしょうか。
京都市北区にある大徳寺は、広々とした境内を持つ臨済宗のお寺です。 境内には、一般公開されているものから通常非公開のものまで、たくさんの塔頭(たっちゅう)寺院が建っています。 大徳寺に塔頭が多く建っているのは、ここで織田信長の葬儀が行われたことと関係があります。
慶長5年(1600年)9月15日。 戦国武将が東軍と西軍に分かれて戦った関ケ原の戦いが起こりました。 勝利したのは、徳川家康率いる東軍です。 東軍を勝利に導いたのは、小早川秀秋でした。 小早川秀秋は、西軍に属していながら東軍に寝返り、陣取った松尾山から一気に駆け下って同じ西軍の大谷吉継を急襲します。 これにより、西軍は壊滅的な打撃を受け、わずか半日で天下分け目の大戦は終わりました。
慶長5年(1600年)6月。 徳川家康は、会津の上杉景勝を討伐するために伏見城を発ちました。 これまで徳川家康は、上杉景勝に上洛を求めていましたが、上杉景勝は全く上洛しようとしません。 そこで、徳川家康は、上杉景勝が豊臣政権に対して謀反を企てているとし上杉討伐に動き出したのでした。
京都府宇治市、京阪電車の宇治駅を出て北に5分ほど歩いたところにお茶と宇治のまち歴史公園茶づなという施設があり、様々な体験プログラムが用意されています。 その茶づなの後ろに小高い丘があり、木々がうっそうと茂っています。 見るからに何かの史跡と思われる小高い丘は、宇治と関係が深い菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)のお墓です。
12月上旬に京都市上京区の廬山寺に参拝した後、北隣に建つ清浄華院(しょうじょうけいん)にも参拝しました。 清浄華院は、浄土宗四ヵ本山の一つに数えられるお寺で、年に何度か訪れています。 京都御苑の東にあるので、その観光の際に参拝するのがおすすめです。
京都市中京区の烏丸通沿いは、多くのビルが建ち並ぶビジネス街となっています。 それらビルに囲まれた烏丸六角に六角堂の通称で親しまれている頂法寺があります。 六角堂は、聖徳太子を開基として創建されたというのですから、その歴史はとても古いです。 そして、その頃から、いけ花があったというのですから、こちらも長い歴史を持っています。 実は、六角堂といけ花の成立には関係があり、六角堂が建つ地は、いけ花発祥の地でもあるのです。
平安京には、東市(ひがしのいち)と西市(にしのいち)という2つの市場がありました。 人が多く住む場所には、市場は欠かすことができませんから、平安京でも東西の市が設けられていたんですね。 市場のうち西市の西側には野寺小路(のでらこうじ)という小路が面しており、現在その場所には平安京野寺小路跡を示す石碑が立っています。
京都市の中心部を北から南に流れる堀川。 堀川には、西堀川と東堀川の2つがあり、現在の堀川は東堀川を指します。 では、西堀川はどうなったのかというと、紙屋川という名で呼ばれています。 その紙屋川の清流は、平安時代に紙すきのために利用され、紙屋院という製紙工場も造られていました。