
フランシスコ会の活動拠点だったフランシスカンチャペル
阪急電車の大宮駅から南東に約3分歩いたところに空き地のような場所があります。 両脇を別の建物に挟まれ、正面には瓦葺の塀があり、中には入れないようになっています。 この空き地のような場所は、かつて、フランシスカンチャペルがあったところです。
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阪急電車の大宮駅から南東に約3分歩いたところに空き地のような場所があります。 両脇を別の建物に挟まれ、正面には瓦葺の塀があり、中には入れないようになっています。 この空き地のような場所は、かつて、フランシスカンチャペルがあったところです。
京都市東山区の祇園白川に架かる巽橋(たつみばし)から南に向かって2分ほど歩くと、左手に細長い石碑が立っています。 京都は、歴史的な事件が数多く起こっている都市なので、道を歩いているとよく石碑を目にします。 随分と昔に建立された石碑もありますが、つい最近建立された石碑もあり、祇園で見つけた「薩土討幕之密約記念碑」の石碑も、令和元年(2019年)7月16日の日付が記されていました。
京都府乙訓郡大山崎町の天王山のふもとに大山崎瓦窯跡公園(おおやまざきかわらがまあとこうえん)という公園があります。 公園の規模は、それほど大きくなく、数台の車が停車できる程度のコンビニと同じくらいです。 訪れるのは、地元の子どもたちくらいですね。 でも、大山崎瓦窯跡公園に残る大山崎瓦窯跡は、国の史跡に指定されている歴史的に興味深い場所なのです。
京都市山科区に毘沙門堂門跡(びしゃもんどうもんぜき)というお寺が建っています。 毘沙門堂門跡は、三千院、青蓮院、妙法院、曼殊院とともに天台宗の五箇室門跡の一つに数えられています。 門跡寺院は、皇族関係者が代々住職を務めてきたお寺で、そのため、皇室と縁が深いです。 毘沙門堂も、江戸時代に後西天皇の皇子公弁法親王(こうべんほっしんのう)が入寺して以来、門跡寺院となっています。 その毘沙門堂の境内には、徳川家の家紋である葵の御紋が入った灯籠が立っています。
現在の歌舞伎のもととなったのは、出雲(いずも)の阿国(おくに)が始めた歌舞伎踊りとされています。 慶長8年(1603年)3月25日に阿国は、京都市上京区の北野天満宮の境内で初めて歌舞伎踊りをし、京都の人々に強烈な印象を与えました。 ところで、阿国は、なぜ北野天満宮を選んで歌舞伎踊りの興行を行ったのでしょうか。
京都市北区にある大徳寺は、広々とした境内を持つ臨済宗のお寺です。 境内には、一般公開されているものから通常非公開のものまで、たくさんの塔頭(たっちゅう)寺院が建っています。 大徳寺に塔頭が多く建っているのは、ここで織田信長の葬儀が行われたことと関係があります。
慶長5年(1600年)9月15日。 戦国武将が東軍と西軍に分かれて戦った関ケ原の戦いが起こりました。 勝利したのは、徳川家康率いる東軍です。 東軍を勝利に導いたのは、小早川秀秋でした。 小早川秀秋は、西軍に属していながら東軍に寝返り、陣取った松尾山から一気に駆け下って同じ西軍の大谷吉継を急襲します。 これにより、西軍は壊滅的な打撃を受け、わずか半日で天下分け目の大戦は終わりました。
慶長5年(1600年)6月。 徳川家康は、会津の上杉景勝を討伐するために伏見城を発ちました。 これまで徳川家康は、上杉景勝に上洛を求めていましたが、上杉景勝は全く上洛しようとしません。 そこで、徳川家康は、上杉景勝が豊臣政権に対して謀反を企てているとし上杉討伐に動き出したのでした。
京都府宇治市、京阪電車の宇治駅を出て北に5分ほど歩いたところにお茶と宇治のまち歴史公園茶づなという施設があり、様々な体験プログラムが用意されています。 その茶づなの後ろに小高い丘があり、木々がうっそうと茂っています。 見るからに何かの史跡と思われる小高い丘は、宇治と関係が深い菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)のお墓です。
12月上旬に京都市上京区の廬山寺に参拝した後、北隣に建つ清浄華院(しょうじょうけいん)にも参拝しました。 清浄華院は、浄土宗四ヵ本山の一つに数えられるお寺で、年に何度か訪れています。 京都御苑の東にあるので、その観光の際に参拝するのがおすすめです。