紫式部・小野篁の墓と赤穂義士四十六士遺髪塔跡
京都市北区の堀川通と北大路通が交差する堀川北大路とそこから300メートルほど南にある堀川紫明付近の間には、平安時代に活躍した2人の人物のお墓と江戸時代の義士の遺髪塔跡があります。 平安時代に活躍した人物のお墓は、紫式部と小野篁(おののたかむら)のものです。 そして、江戸時代の義士の遺髪塔跡は、赤穂浪士のものです。 どちらも大きな企業の敷地近くに存在しています。
観光名所、史跡、四季折々の風景を写真とともに紹介するブログ。※アフィリエイト広告を利用しています。
京都市北区の堀川通と北大路通が交差する堀川北大路とそこから300メートルほど南にある堀川紫明付近の間には、平安時代に活躍した2人の人物のお墓と江戸時代の義士の遺髪塔跡があります。 平安時代に活躍した人物のお墓は、紫式部と小野篁(おののたかむら)のものです。 そして、江戸時代の義士の遺髪塔跡は、赤穂浪士のものです。 どちらも大きな企業の敷地近くに存在しています。
京都市上京区の市バス亭堀川寺之内から北に少し歩くと妙蓮寺という法華寺のお寺が建っています。 創建されたのは鎌倉時代で、その後、何度か移転した後、現在地に定まりました。 妙蓮寺は、広い境内を持つお寺なのですが、意外と知られていません。 なので、妙蓮寺の不思議な桜についても、ご存じない方が多いことでしょう。
京都に都がおかれたのは、この地が四神相応の地だったからと伝えられています。 四神とは、四方を守る神のことで、北の玄武、南の朱雀、東の青龍、西の白虎をいいます。 そして、四神相応の地とは、北に山、南に湖、東に川、西に道がある地形を意味します。 これを京都に当てはめると、北に船岡山、南に巨椋池(おぐらいけ)、東に鴨川、西に山陰道があり、正に四神相応の地と呼べる地形だったのです。 今回の記事では、北の船岡山とその東にある玄武神社を紹介します。
京都市北区には、小高い丘のような山があります。 この山は船岡山と呼ばれており、そこには織田信長を祀っている建勲神社(たけいさおじんじゃ)が建っています。 今回の記事では、境内に雪が積もった建勲神社を紹介します。
2011年1月は、京都を寒波が襲いました。 各地で雪が降り、地面が真っ白になるほど積もる地域もありました。 こういう寒い冬は、あまり散策に出かけたくないのですが、しかし、寒い日だからこそ見れる景色もあるので、京都市北区にある今宮神社にお参りに行くことに。
京都市下京区の西本願寺は、街中にあって広大な敷地を有しています。 堀川通を北から南に歩くと、その広さが十分に分かりますね。 堀川通と七条通が交差する辺りまで築地塀があるので、最初はそこまでが西本願寺の敷地だと思っていたのですが、実は南の方は西本願寺ではなく興正寺の敷地であることに気付きました。
幕末、京都の治安を守るために組織された新撰組は、その屯所を八木邸に置きました。 その後、手狭になったため西本願寺に屯所を移転し、さらに慶応3年(1867年)に新撰組は不動堂村に移り、そこに屯所を構えました。 以前にも新撰組の屯所については、このブログで紹介しましたが、不動堂村の屯所跡に新しく石碑が置かれたので、もう一度紹介しておきたいと思います。
京都市左京区の平安神宮近くに本妙寺という小ぢんまりとしたお寺が建っています。 この付近は、本妙寺と同じくらいかそれよりも小さいお寺がたくさん建っているので、車の通りは多いのですが、京都らしさを感じることができます。 本妙寺は、観光寺院という訳ではないのですが、忠臣蔵と関係があるお寺なので、紹介しておきたいと思います。
京田辺市に天津神社という神社があります。 「てんしん」ではなく「あまつ」と読みます。 所在地は、JR大住駅から北に10分ほど歩いたあたりです。 町中にひっそりと建っており、最初見た時は、公園かと思って素通りしそうになりました。
京田辺市のJR松井山手駅から北に20分ほど歩くと天神社という神社が現れます。 天神社は、「てんじんしゃ」、または、「あまつかみやしろ」と読みます。 このあたりを観光で訪れる方は、あまりいらっしゃらいないようで、私が天神社に訪れた時も境内には誰もいませんでした。