京都に関係する人物一覧

真如堂にある向井去来の句碑

江戸時代の俳人である松尾芭蕉の弟子に向井去来(むかいきょらい)がいます。 向井去来は、京都の嵯峨にある落柿舎(らくししゃ)を営んだ人物であり、松尾芭蕉も元禄2年(1689年)に初めて訪れて以来、落柿舎に合計3回訪問しています。 松尾芭蕉が嵯峨日記を書いた場所は、落柿舎ですね。 京都の向井去来の遺跡としては、落柿舎が有名ですが、左京区の真如堂(しんにょどう)にも向井去来の句碑があります。

尾形光琳の菩提所・興善院旧跡

京都は、長い歴史の中で、数々の芸術家を輩出してきた地です。 江戸時代中期に活躍した画家の尾形光琳もまた京都の生まれです。 その尾形光琳の菩提所は、京都市上京区の妙顕寺の東にあった興善院で、現在は泉妙院というお寺が建っています。

退耕庵の小町堂と小野小町百歳井戸

京都市東山区の東福寺には、退耕庵という塔頭(たっちゅう)が建っています。 退耕庵は、貞和2年(1346年)に東福寺第43世住持性海霊見(しょうかいれいけん)によって創建されたので、南北朝時代にできたお寺です。 ところが、退耕庵には、それよりも古い平安時代に活躍した小野小町ゆかりの玉章地蔵(たまずさじぞう)が小町堂と呼ばれる地蔵堂に安置されています。 この玉章地蔵は、いったいどのような理由で退耕庵に祀られるようになったのでしょうか。

豊臣から徳川に嫁いだ旭姫の墓がある南明院

本能寺の変(1582年)の後、織田政権の後継者となったのは羽柴秀吉でした。 しかし、これに織田信長の子の信雄(のぶかつ)は不満を持っていました。 織田家の後継者となるのは、信長と血がつながっている自分のはずなのに信長の家臣であった秀吉が織田家を乗っ取ろうとしていると思ったからです。 そこで、信雄は徳川家康に助力を頼み、秀吉と一戦交えることにしました。

廬山寺にある慶光天皇陵

京都市上京区に廬山寺(ろざんじ)というお寺があります。 廬山寺の境内の東には、光格天皇の父である慶光天皇(きょうこうてんのう)の陵があります。 光格天皇が即位したのは江戸時代後期のこと。 光格天皇の前の天皇は後桃園天皇だったのですが、後桃園天皇には男子がいませんでした。 そのため、後桃園天皇が崩御した後は、慶光天皇の男子であった光格天皇が即位することになりました。

神経精神科教育に貢献した嶋村俊一の邸宅跡

京都の街を歩いていると、偶然、石碑を発見することがあります。 先日も、京都市上京区の新烏丸通を南に向かって歩いていると、建物の片隅に「嶋村俊一邸跡」と刻まれた石碑を発見しました。 嶋村俊一とは、聞いたことない名ですが、石碑が建立されているのですから、きっと有名な人物なのでしょう。

文子天満宮の多治比の文子像

9月中旬 。 京都市下京区の東本願寺に参拝した後、東に5分ほど歩き、文子天満宮(あやこてんまんぐう)にもお参りしました。 文子天満宮は、天満宮となっているように学問の神さまの菅原道真を祀っています。 京都だと、菅原道真を祀る神社は、上京区の北野天満宮が最も有名ですが、ここ文子天満宮は、その北野天満宮の前身にあたる神社なのです。