鎌倉時代末期から室町時代初期にかけて活躍した武将の中に佐々木道誉(ささきどうよ)という人物がいます。
佐々木道誉は、身なりを派手に飾り、遠慮なく振る舞う性格で、当時の人々は彼を婆沙羅大名(ばさらだいみょう)と呼びました。
鎌倉幕府を倒した足利尊氏に協力
吉川英治の私本太平記の中で佐々木道誉は、足利尊氏が鎌倉幕府を倒すのに重要な役割を担った人物として描かれています。
婆沙羅な性格の道誉は、倒幕派の後醍醐天皇に味方するのかと思えば、鎌倉幕府最後の執権・北条高時に気に入られたりと、朝廷と幕府の間の争いを静観しながら、自分にとって有利な方に付こうとしていました。
道誉は武士だったので、荒々しい性格を持っていることは当然と言えます。
しかし、道誉は、婆沙羅な性格を持つ半面、文化にも精通していたことから朝廷からも信用される存在でした。
婆沙羅な性格と雅な振る舞いを使い分けた彼は、まさに二股の天才と言えます。
そんな風見鶏を決め込んでいた道誉が、足利尊氏の説得によって倒幕派に加わったことで、事態は大きく朝廷側に傾き、鎌倉幕府は滅亡しました。
実際には、佐々木道誉の倒幕の功績は、それほど大きなものではなかったのかもしれませんが、私本太平記の中では、倒幕の立役者として彼の婆沙羅な性格と活躍が興味深く描かれています。
子供の喧嘩が発端で燃えた妙法院
倒幕から7年が過ぎた暦応3年(1340年)に東山の妙法院で事件が起こります。
佐々木道誉の子の秀綱が鷹狩りの帰りに妙法院の紅葉の枝を折ったところ、当寺の僧がこれをとがめました。
とがめられた秀綱は僧と喧嘩をしてしまいます。
これを聞いた道誉は怒り、なんと兵を引き連れて妙法院を焼き打ちしたのです。
まさに道誉の婆沙羅な性格が起こした物騒な事件と言えます。
その後も妙法院は応仁の乱(1467年)で焼失し、豊臣秀吉の方広寺の大仏造営の際に再建されました。
そして、慶長19年(1614年)に智積院の隣に移され、現在に至っています。
佐々木道誉と妙法院との争いについては、太平記現代語訳というサイトの佐々木道誉、皇族に対して狼藉をはたらくのページで今風の言葉使いでわかりやすく紹介されていますので、一度ご覧になってみてください。妙法院焼き打ち後、佐々木道誉がどうなったかもわかりますよ。
2012年3月7日追記:上記サイトは閉鎖されています。
なお、妙法院の詳細については下記ページを参考にしてみてください。